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ランドセルから始まる日本人の同調圧力

「みんな違くて良い」に疑問を感じる 

昨今、世間の注目テーマである「ダイバーシティ(多様性)」。
多様性とは、簡単に一言でいうと、様々な個性や価値観があるということ。
この多様性の社会を実現しようと様々な発信があるのは良いことだと思いますが、メディア、Twitter、Blog等で見かける

「みんな違くて良い」

という発言に違和感を感じてしまいます。

私には、
「みんな身長・体重が違くて良い」「みんな違う顔していても良い」
というレベルで聞こえます。

人間であれば絶対に避けられない事実をわざわざ言葉にしていることにびっくりしました。

それもそのはず、主要欧米諸国は、

  • 個性を大事にする

  • 自己主張をする

という教育を幼少期から行っているのに対し
日本は真逆の

  • 個性を消し周りと同じにする

  • 自己主張より周りへの配慮を優先する

という教育を幼少期から行っていることが大きな要因かと思います。
個性があるのは当たり前だけど、ルールを作り同調させることを美徳する日本では、同調しなくていいという事が特別な事と無意識に感じているのだと思います。

日本では人間形成において重要な幼少期や若年期で

  • ランドセル

  • 体操服

  • 学生服

  • 校則

  • リクルートスーツ

といったルール、制約で個人の選択肢をなくす行為を行います。

これらが当たり前となっている日本では、
同調することが正義というすり込みが完成し、ダイバーシティとは真逆な世界になっていのるのではないでしょうか。

したがって、
「みんな違くて良い」
という言葉の裏には

「違うことは特別である。でもこれからは特別を認めようじゃないか」

というマインドが隠されていると思います。

同調教育は何を生み出すのか? 


皆さんはどう思うでしょうか?
ルールが多くて同調させる教育、文化に違和感は感じないでしょうか?
もちろん日本の教育、文化にもメリットはあります。
そのメリットを理由に無理やり肯定しようとしていないでしょうか?

私は小学校4年生頃から違和感を感じており、どうやったらランドセルで登校しなくてよくなるかを毎日考えていました。

そんな中、生き苦しいながらもなんとか大学を卒業し比較的大きな会社に就職しましたが、社会人になり自立できるようになってからはルールや同調整に支配される人生に疑問を感じ24歳で脱サラをすることになりました。

大学生の頃から強く意識していたのは、

「夫や妻、そして会社の愚痴しか言わない大人にはなりたくない!」

です。
大学を出て、就職、家族を作った挙げ句に小遣い制というレールに乗って結局愚痴しか出てこない人生に

「大人って愚痴ってばかりで何が楽しいのかな?なんで改善しようとしないのかな?」

と思っていました。
24歳まではこんな事をいつも考えていたので、 多くの人の会話を聞き分析したり、周りの人に意見を聞きました。

その結果、大半の人は、同調することに慣れてしまい、

  • 「みんな同じだから我慢する」ということが染み付いている

  • 「個性を出す、やりたい事を優先する」という発想がない

  • 「我慢」が思考のファーストオプションになっている

ということに気づきました。

なぜこの様になったのかはわかりません。
戦国時代前後か明治維新以降なのかはわかりませんが、優秀な管理者が作り出した管理者主導の文化を現代でも受け継いでいるのでしょう。

このような文化が作った人間はどうなるのでしょうか?
このような同調教育は何を生み出すのでしょうか?

個性を出すことが苦手ですから、見た目も同じようになり、自分の意見を発言することを控えるという人間になってしまいます。
経営者や政治家などのリーダー・管理者が扱いやすい人間に成長し、リーダーを中心に意見を控える人が集まった(会社などの)コミュニティが日本中で形成・運用されます。

コミュニティの運用には様々な原因で必ず問題が発生しますが、
我慢して待てば60点から70点くらいの回答をリーダーが出してくれます。運が良ければ80点以上の回答が出てきます。

「お金や時間を使って勉強したり、意見を言って嫌われるリスクを犯すより、我慢して待っていれば日本人の平均的な生活が出来るよね!」

という思考になり、成長の可能性を止めてしまいます。

キツイ言葉になりますが、

教育課程では控えめな同調型人材の基礎を作り上げ、
社会に出ると自ら成長を止める他力本願的な人材を完成させているのが現状です。

その結果どうなるのか?知らないところで何が起きているのか? 

考え方によれば他力本願は楽といえば楽です。
80億人の地球規模で考えれば日本人は上位1%の富裕層に入っているのですから、60点の生活でも特に不満ではないという人はそれはそれで良いでしょう。

しかし、しかしです。
気づかないところで利益を搾取されているという事実を知ったらどうでしょうか?

それでも他力本願で良いと思えますでしょうか。

先進国で唯一紙運用を続けている政府、行政の理由が解りやすいかもしれません。

コロナの給付金を配る際も紙運用を行い、振り込みを行うまでの作業に1,500億円かかっており、民間企業に作業を外注しています。

現代において紙運用もおかしいですが、 こんな超巨大案件を数日、数週間である会社が受注するということ自体あり得ません。

民間では多数の会社がコンペに参加、数ヶ月かけて提案活動を行い、コンペに勝った会社のみが受注に至ります。

政府や行政が行っていることは明らかに不自然かつ非効率であり、無駄な金が動いています。

アベノマスクや地球温暖化も同様です。
使い物にならない小さすぎるマスクに260億円30年後までに気温を0.2度下げるだけで4兆円/年の支出。

マスクや温暖化対策の目的は正しいと思いますが、実際の内容と費用を考えると、あまりにも費用対効果が合わなすぎます。

超高学歴の政治家や官僚が真剣に考えた結果がこんな愚策とは到底思えるはずはなく、利権や癒着と考えたほうが自然かと思います。

こいう利権ビジネスや癒着には誰かが大儲けしています。
皆の税金が誰かのポケットに入っているということです。

これを利益の搾取と言わなくてなんと言えばよいのでしょうか。
他力本願だとズル賢い人にお金を取られてしまうということです。

ではどうすればよいか?

個人的には日本のダイバーシティ(多様化)は必須だと思います。
それはLGBTQや障害者のためではありません。

外国人をジロジロ見て「特別な存在」扱いする行為を早急にやめる必要があります。明確な差別行為だし、外国人に嫌われたら日本は生き残ることはできません。

それはなぜか?

現在の日本は少子化なのはご存知かと思います。
働く世代が少なくなると1億2千万人を前提とした日本の社会システムを運用するには税収が足りないからです。
「子供は未来、宝物」という曖昧な表現で誤魔化していますが、少子化問題の本質は税収不足です。

とはいえ少子化は止められないので、税収を補填するために外国人に働いてもらったり、旅行者からのインバウンド消費に頼らざるを得ませんし、給料が上がらない日本より景気が良い外国に製品を販売する方が利益は上がります。

したがって、趣向のダイバーシティよりも人種のダイバーシティの方が日本国民の生活に直結します。

人種のダイバーシティを行わないと日本はさらに給料が下がり、物価が上がり続けるという最悪な事態になります。

ここまで書いてきたように同調整から始まるデメリットがあります。
したがって、日本の同調整文化を早く止めないと息苦しさは加速します。

そのためには同調整の第一歩である、ランドセル制度を止めることから始めた方がよいと思います。

ランドセルというカバンが悪いわけではなく、親からの価値観の押し付け選択の自由を奪うことが問題なのです。

安価で機能性のあるカバンは沢山あります。そこから自分の意志で選択するという訓練を始めた方がその後の将来の幅が広がる気はしないでしょうか。

ランドセルを所有・使用することで小学生らしさや成長した感が強いのはわかりますが、それは親が感じる感情でありエゴだと思います。

自分の子供が可愛いと思う気持ちと、自分の子供が優秀な人に成長する可能性のどちらが重要か考えれば「何が子供のためか、国のためか」がわかると思います。

リクルートスーツも不思議な文化です。
みんな同じ服を着て個性をなくさせておいて、面接では個性を問いています。個性や能力を問うならリクルートスーツはむしろ逆効果なはずです。

学生はリクルートスーツを着ない選択をするべきだと思いますが立場が弱いので、ここは企業がリクルートスーツ廃止の運動を行うべきです。

小中高の学校も出来ることから対応してほしいものです。校則は撤廃すべき意味不明なものですが、それは教員の教育からやり直す必要があるため、
まずは体操服やジャージ、水着など着用するものは個人の自由にすべきです。

ダイバーシティですから個性があって当たり前ですし、見た目の差や性別を曖昧にするため統一した服を着用させるのはダイバーシティの間違った理解の代表例です。

選挙に行って自分の意思を投票することも素晴らしいですが、それ以外にも個人で出来ることはあります。

まずは若いうちから行える「意思を持って選択する能力」を訓練することで日本の将来を明るくしてもらいたいです。

それでは。


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