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※北海道はイメージです① Ver0.8+

はじめに

「北海道」という文字列は、単なる行政区画の単位を超えた意味を多くの日本人に与えている。北海道ミルクや北海道メロンと「北海道」の3文字が入っていれば、ちょっとした特別感を感じる人もいるだろう。むしろ道民であれば、牧場の名前がなかったり、夕張メロンのようなブランド名でない漠然とした「北海道」というネーミングを単純に喜ばないかもしれない。このような雑な言い回しは、内地の少ない降雪で止まる交通機関や、函館と網走を1泊2日で回るような旅程などと同じく、北から目線で冷ややかに見られるものかもしれない。しかし正負どちらにせよそれほどまで「北海道」という言葉がもつイメージは強力である。食品などのちょっとした質のよさを担保してくれそうな雰囲気、イメージを「北海道らしさ」と呼ぼう。

この「北海道らしさ」に縛られた作品として『フランチェスカ』があることは、以前『もう助けてなんて言わないよ、フランチェスカ』にて述べた。そして今年、「北海道らしさ」について縛られたもう一つの作品、明治時代の北海道を舞台とするマンガ『ゴールデンカムイ』が完結した。

フィクションや観光用の雑誌だけでなく、『北海道民のオキテ』(さとうまさ&もえ、KADOKAWA/中経出版 2014年4月)『BRUTUS特別編集 北海道の大正解』(マガジンハウス、2021年8月)『地球の歩き方 北海道』(学研プラス、2022年6月)といった、北海道についてもっと知れるという触れ込みの書籍が書店に並んでいる。これらの需要は、より強固な「北海道らしさ」を確保したいという消費者が増えていると予感させる。

「北海道らしさ」を振り返りつつ、イメージの大地たる北海道について思考を巡らせる。

はじめよう。

北海道というイメージ

ゲンロンカフェにて行われたトークイベント『さやわか×武富健治×春木晶子 北海道を衝け――番外地はいつミルクランドになったのか』では、北海道は外部からどのようなイメージを持たれているのかを内面化し、自己イメージの操作に特化している土地と語られた。他者からの過度なイメージ変化を拒絶するのではなく受容し、イメージの再生産を繰り返す気風があるとも言われていた。

イベントに登壇した批評再生塾4期総代、元北海道博物館学芸員(現江戸東京博物館学芸員)の春木晶子は論考『あなたに北海道を愛しているとは言わせない』で、村上春樹の作品分析と近世における蝦夷地という空間の扱い方を通して、現在の北海道について次のように述べている。

ピースフルでナチュラルな、「果てしない大空と広い大地」の「北の国」。今日、かの地に注がれるポジティブな眼差しは、決して外から与えられるばかりのものではない。北海道に暮らす人々もまた、それこそが北海道らしさなのだとぼんやりと、疑うことなく信じている。人々は、そうした愛される北海道をこそ、愛している。[中略]牧歌的なポジティブイメージにとって、アイヌ民族の土地と文化の収奪、移住者や労働者(士族/民間移住者、囚人労働者、タコ部屋労働者)たちの夥しい犠牲によって成し遂げられた北海道の形成といった辛気臭い「開拓」の歴史は、邪魔である。「自然豊かな北海道」「自然と共生するアイヌ民族」。行政やメディアが主導する宣伝文句が、無批判に無邪気に繰り返され、蔓延するというわけだ。

あなたに北海道を愛しているとは言わせない(前編)より

それ(引用者註:『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド/村上春樹』における二つの世界の関係)は、一元化の論理におさまらないものや禍々しいものを蝦夷地や鬼門に押し込める、近世以来の日本の態度そのものだ。[中略]近代から今日にかけては、羊の毛皮のごとき、ナチュラルでピースフルな北海道のポジティブイメージを愛し続けている。それが元来禍々しさを封じ込める形であることや、可哀そうで空虚な内実を覆う皮であることを忘却しながら。

後編より

春木の言葉を借りれば、近世では禍々しいもの、理解しがたいものを押し込めた『蝦夷地』、近代以降はナチュラルでピースフルなイメージを押し込めた『北海道』という扱いを内地=道外・中央からされている。そして、道民=北海道のヒトは外部からのイメージの使われ方について、前向きなものとして受け取っている。このピースフルなイメージは、禍々しい過去の排斥、血なまぐさい収奪や戦争といった歴史から目を背ける口実として使われていた、という文脈からも切り離されつつある。

ここまでの「イメージ」、事物が記号化したものを指す言葉は、人物(実在・架空問わず)が記号化したものを指す「キャラクター」とほとんど同じ用法だろう。前述のゲンロンカフェ北海道イベントに登壇した物語評論家・さやわかは、ゲンロンβ連載の『愛について』にて、『動物化するポストモダン/東浩紀』(講談社、2001年)を通し、以下のようにキャラクターについて述べている。

ある人について記号的に捉え、固有の人格ではなく類型的な特徴による理解を優先すること。これを筆者は「キャラクター化の暴力」だと考える。 もともと「キャラクター」という言葉は、日本ではアニメやマンガ、ゲームなどのポップカルチャーの登場人物を指す言葉だ。それがゼロ年代以降、人間を語るのにもよく使われるようになった。ときには「そのキャラらしさ」に沿って行動することが同調圧力的に強要され、そこからはみ出そうとすれば「キャラと違う」などと諫められる。[中略] 東のデータベース消費モデルでは、データの読み込みと書き出しが頻繁に行われ、そのプロセス自体の存在をユーザーが常に意識することが、短絡の検知部として機能する。[中略]私たちはこの往復運動を意識することで、不断に記号とデータベースの照合を行い、あるいはデータベースを書き換えながら、記号と現実を切り離すことができるはずだ。

愛について──符合の現代文化論(7) 符合のショートサーキット(2)より

北海道は、より分厚い、より今の「北海道らしい」毛皮を求めてキャラチェンジを繰り返している。さやわかの言葉を借りれば、北海道は外部から与えられたひとつのキャラクターを継続しているだけではなく、自らデータベースに含まれるキャラクター性を置き換えているとも言えるだろう。

北海道のイメージ/キャラクターの操作は、web2.0のインターネットにおける情報の書き換えと親和性や類似性がある。つまりユーザーが作成した作品をプラットフォーマーが提供するサービスに載せてコンテンツが拡散し、その切り抜きを別の空間でも連鎖するような構造をもつということだ。ユーザーやプラットフォームがコンテンツをフルサイズで共有するだけでなく、要所要所を切り取った断片をみんなが再利用できるものになった状況にある。これについて、さやわかは『さやわかのカルチャーお白洲 理論編(ノウハウ #30)「説明の技術」⑦~文脈とは何か?どう文脈を理解すればいい?簡単ですよ…?』(2022/8/24配信)にて、

別々の場所に存在する断片が統合されることでコンテンツとなりつつ、また別の場所から参照されていく=常に断片化を伴う=常に別の文脈に晒される。

理論編ノウハウ#30より

と述べた。また、構造を知った上でコンテンツや言説に目を向けなければ、文脈から乖離した切り抜きや要約、語り手にとって都合のいい背景に基づく言説が力を持つようになってしまうとも述べている。
※もちろん、この抜き出し自体が私の論考に都合のいい切り取りである。

ここで「北海道らしさ」を扱った作品として前述したマンガ『ゴールデンカムイ』(集英社、野田サトル、2014-2022)とアニメ『フランチェスカ』(㈱ハートビット、2014)のふたつから、北海道とイメージ/キャラクターの関係について考える。

ゴールデンカムイとフランチェスカ

『ゴールデンカムイ』は2014年から集英社ヤングジャンプにて連載されていた野田サトルによるマンガ作品である。日露戦争直後の北海道を舞台とし、アイヌ、第七師団、土方歳三など北海道に縁のある歴史上の存在と、主人公・杉元佐一や網走監獄の脱獄囚など架空の人物が、アイヌの遺した黄金を求めて北海道を右往左往する物語である。ジャンルは多岐に渡り、冒険・歴史・文化・狩猟グルメGAG&LOVE和風闇鍋ウエスタンという呼称が用いられている。単に黄金をめぐる駆け引きを主題としているわけではなく、北海道各地を移動し文化や歴史に触れつつ、時にサバイバルを、時にグルメを、時に戦争を挟み込む。ギャグ漫画とシリアスな展開、スリリングな騙し合いやバイオレンスな殺し合いを往復する作風である。

『ゴールデンカムイ』の基本的な歴史は現実の北海道史に重ねられており、アイヌ史・文化についても積極的に取り入れている。その重ね方は徹底しており、巻末には道内のアイヌ研究者や博物館などの名前が列挙されるほどである。エビデンスに基づいている一方で、大蛇や怪鳥の存在など、伝承や伝説、噂話を起点とした「物語」を根拠としている部分もある。たとえば、土方歳三について、遺骨が存在していないという史実から導かれるIFの物語を論拠とすることで、戊辰戦争での死から生還させている。つまり「史実・伝承・伝説・噂=物語」を混ぜ合わせ「人物、怪物=キャラクター」を登場させることで、作中における虚構と現実の並列を描いている。

また、キャラクターそれ自体も生ける伝説として語られる対象となることで、単なる人間ではなく、超常的な存在になるという構造をもっている。たとえば、「不死身」と名付けられることで杉元は不死身となり、「脱獄王」と名付けられることで白石は脱獄において万能となり、「不敗」と名付けられることで牛山は敗けなくなる。彼らは語り継がれることで超人的な活躍をする。作中世界に限り、実際にあった史実=現実と、伝説・伝承のような物語=虚構は並列のものとして扱われているのだ。アイヌが遺したとされる黄金すら、噂を基点として作中現実に存在していく。第一話でアイヌの黄金について言及するキャラクターがいなければ、この物語は始まりすらしないのだ。最終話においては、虚構と現実の並列化の究極形として、現在の現実の北海道やアイヌを取り巻く自然・言説が『ゴールデンカムイ』で語られたフィクションによって支えられているかのように描いている。又、単行本で追加された第二次世界大戦を巡る短い物語でも、同様の手法が用いられている。この終幕について、物語外部の理論として受け取ったことにより、実在のアイヌは弾圧されており、遺骨の返還問題などは現在も続いているのだから、アイヌ民族・文化との関係を綺麗な物語としてほしくないという声も散見された。

一方、『フランチェスカ』は北海道発のアンデッド系ご当地アイドルキャラクターとして、サブカルチャー的表現を通して北海道ブランドを広めるというコンセプトのもとで2012年に生まれた地域振興プロジェクトである。プロジェクトの一環として2014年にテレビアニメ全24話が制作された。アニメ作品としては、現代の(アンデッドがよく出る土地としての)北海道を舞台とし、北海道庁職員のエクソシストと美少女アンデッド・フランチェスカが、アンデッドとして蘇った石川啄木、新選組、クラーク、新渡戸稲造などと戦ったり仲良くしたりしながら、北海道に降りかかる未曾有の危機を防ぐというもの。地域振興プロジェクトとしては、多くの企業とコラボしオリジナル商品を展開したり、道内各所のイベントでフランチェスカブースやトークショーなどを拡げていたものの、北海道のカルチャーとして定着しなかった。アニメ終了後もラジオドラマなどで続編を匂わせていたが、結果として、元々の制作会社である株式会社ハートビットが倒産したことから、2期以降の展開は絶望的となっている。

『フランチェスカ』も『ゴールデンカムイ』と同様に伝説・伝承の存在を根拠としたキャラクターやストーリーの展開をすることがあった。第一話の導入では、アンデッドの多い土地であるということあわせて、北海道にまつわる伝説なども流れている。たとえば第13話「伝説の武者、見参デスカ?」は、源義経が北海道へ逃げ延びていたという義経北方伝説を用いている。「義経試し切りの岩」という観光名所がある稚内を舞台に、義経=チンギスハン説を組み合わせ、フランチェスカと源義経アンデッドが出会うストーリーである。第16話「洞爺湖には、いるんデスカ?」も洞爺湖に潜むと言われる首長竜トッシーが登場する。その他『札幌ラーメンからスープカレーへの変遷』『幸せの黄色いハンカチ』など、グルメブームやドラマコンテンツといった物語をも取り込んでいる。しかし、官民一体となり地域振興としてアニメなどのコンテンツを進行させていたプロジェクトであったにもかかわらず、北海道以前のアイヌ、先住民族や文化について深く考えていなかった。前述のように、語られる伝説は近代以降、開拓以降における物語である。

両作品に共通する事柄は、名物グルメ、新選組、戦争、伝説、伝承、不死身……など多々挙げられる。両作品ともに伝説や噂といった、事実かどうか不明確な情報=物語を作中の事実としてキャラクター化し表現しているという部分も似通っている。

逆に、明確に共通しないものはアイヌに関係する事象だ。北海道を扱っていることは同じだが、『ゴールデンカムイ』はアイヌ描写を積極的に取り入れ、『フランチェスカ』はアイヌの描写を避けた。『ゴールデンカムイ』は前述した通り、研究者や博物館などが協力し、アイヌ史や北海道史、その他の専門事項に裏打ちがあると明示されているが、『フランチェスカ』にはそういった後ろ盾がほとんどない。『フランチェスカ』では戊辰戦争における箱館での戦いは描かれるものの、本来存在するはずのアイヌ民族や文化については描かれない。プロジェクトがもつリソース限界の為に切り捨てられた可能性もあるが、そうであったとしても作品にアイヌと和人・過去と現代の功罪を取り入れる民族共生的な視点は無い。あくまで『フランチェスカ』は名産地や景勝、偉人を扱った観光的な需要に応えるためイメージを操作するためのプロジェクトだったのだ。書き加えるとすれば、そもそもアイヌ施策推進法が施行されたのは2019年5月のこと、それ以前の作品である『フランチェスカ』がアイヌを重要視していないということは、当時北海道におけるアイヌの扱いがその程度だったということすらも示唆している。

『ゴールデンカムイ』は実際の地名、人物、歴史や文化と密接に関わりながら展開されるフィクションであり、実在する資料館や史跡が舞台として描かれていることからも、現実とのつながりが強く感じられる部分が多々ある。結果として、現実の北海道やアイヌ、それらを取り扱う資料館や博物館、はたまた道内銘菓などといった商品は作品を通して注目を集めた。『フランチェスカ』もまた(アイヌが存在しないものの)北海道に実在する名所や名産品、人物を扱う作品であり、企業コラボした商品も複数あった。商業的に全国に知らしめる効果はなかったかもしれないが、目指したものは現在の『ゴールデンカムイ』のような広告効果だろう。

『ゴールデンカムイ』の連載開始や『フランチェスカ』のアニメ放映が始まった2014年は『天体のメソッド』という洞爺湖を舞台とするアニメが始まった年であり、2013年に一度引退した北海道応援キャラクター『北乃カムイ』が復活し現在に至る活動を始めた年であり、新千歳空港国際アニメーション映画祭が始まった年でもある。

更に周辺の年に目を向ければ、初音ミクがさっぽろ雪まつりのキャラクター『雪ミク』となったのは2010年、荒川弘による漫画『銀の匙』が始まったのは2011年であった。もちろん、ビジネスモデルとしての聖地巡礼などが着目され、日本の複数の地方で同様の機運が高まった期間だったという、道外からの影響もある。それを踏まえても2010年代前半は、北海道が農林水産物や景観といった土地と切り離せない観光資源とは別に、マンガやアニメといったサブカルチャー(ポップカルチャー)の中に強く進出する何度目かのタイミングだった。北海道がイメージを、虚構をより強く利用するようになった時期ともいえるだろう。
※余談だが、民族共生象徴空間(ウポポイ)を白老町に整備することが決定したのも2014年である。ウポポイのオープンは2020年7月。

果てしない虚構の大地

ひとびとの語りの断片によって文脈が見えなくなり、個別の言説に振り回されるようになったWeb2.0以後のインターネット。そのインターネットを実装してしまったような北海道という土地と、フィクションと現実世界が交差するような作品構造は相性がいい。『ゴールデンカムイ』『フランチェスカ』に限らず、北海道は多々そういった都合のいい空間として用いられている。更に、自らその構造をメタ的に分解し、再生産しイメージを改変し続けている。

フィクション作品から離れても、そういう動きはいくつも見られる。あまりにも有名な「試される大地。」というキャッチコピーとロゴもその一つである。いまは公的に使われていないものの、残置されている広告などを目にしたこともあるだろう。このコピーとロゴは1998年の北海道イメージアップキャンペーンで公募されたものだ。このキャッチコピーについて北海道Likersというポータルサイトに掲載されている「意外と知らないかも!? 北海道の代名詞「試される大地。」が生まれた理由」という記事が詳しい。これによるとキャンペーンは2000年代に入る直前、新時代に北海道が目指す方向や生き方、理念を広く問いかけようというコンセプトで開かれたものだった。最終的に選ばれたキャッチコピーとロゴは道内在住者の作品ではなく、横浜の人、京都の人のものだった。しかも、後者については北海道に訪れたこともなく、イメージのみで作ったものが採用されたとのことだった。更に、長時間の会議を経て選ばれたコピーについて当時の道知事は【“試される”とは、決して辛い意味で「試される」というものではなく、「自らに問いかける」あるいは「世に問う」というプラス志向を示す言葉であるとともに、「try」の意味が込められている】という解釈を述べている。

このコピーはただ残置されているだけではない。2009年から北海道札幌市豊平川河川敷(中島公園駅近く)で開かれている『チルノのパーフェクトさんすう教室踊ってみたオフ』(通称・チルノオフ)の動画に付けられたタグは『試されすぎた大地、北海道』であり、10年を超えた今でもオフは行われており、使われ続けている。『呪術廻戦17巻 第146話/芥見下々』(集英社、2021年)でも主人公・虎杖が北海道を指して「流石 試される大地」と言っているコマがある。キャッチコピーが『その先の、道へ。北海道』に変わったとしても、『試される大地。』というコピーは未だに北海道をイメージさせる言葉として流通し続けているのだ。

今後も、北海道を舞台としたフィクション作品はマンガ・アニメに限らず多く制作されていくだろう。そこでは多くの「イメージとしての北海道」が扱われる。もしかすると多くの道民や北海道企業は個々のコンテンツの内容に踏み込まず、ただ北海道が取り扱われていることに着目するかもしれない。外部の現象に一喜一憂し、商業的に効果があるかどうか、公共的に効果があるかどうかを判定基準として作品に接していくだろう。

イメージ戦略の中では、『ゴールデンカムイ』に多くの変態囚人が登場し、主人公が下半身を露出したり、シマエナガを食べたりしていることや『フランチェスカ』においてクラークが女性を追い回し、新渡戸稲造と共にすすきのを飲み歩いているといった部分は省略される。『ゴールデンカムイ』の囚人たちに彫られた刺青は、彼らの皮を剥ぎ”刺青人皮”として収集され、重ね合わせることによって価値を生む=アイヌの黄金へと至るものだった。このとき刺青人皮は富へ至るための情報としての意味しかなく、彫られた囚人のバックボーンとは全く関係がなくなる。

囚人としての物語を剥ぎ取られた刺青人皮は、春木の言葉を借りれば、積み重なる物語や陰惨な過去を隠蔽するピースフルな羊の毛皮と似ている。そして北海道はより「北海道らしい」毛皮を求める。そのために様々なコンテンツの、カッコいい、カワイイ、売れている、といった表層=刺青だけが切り取られ、宣伝に用いられる。断片化した北海道のイメージを上張りされ、いつしか同化してしまう。

北海道新幹線が通り、札幌オリンピックを招致しようとしている今、行政や企業はより強い「北海道らしさ」を求め様々な書き換えをするだろう。自戒を込めながら述べるが、具体的に自らの消費活動に影響がある現象があるにも関わらず、それを言葉に遺すという動きはあまり見られない。人々は雪まつりで毎年雪像が作られては壊されていくように、文化の盛衰についても捉えているのかもしれない。すでに大通のファッションビル4丁目プラザが2022年1月末に閉店し解体されており、札幌駅地下の商業施設PASEOが9月30日に営業終了した。大通のファッションビルPIVOTも2023年5月末に閉店、同年夏には札幌エスタ(旧そごう)も閉館する予定である。

国内外問わず観光による経済活動が本格稼働しはじめる今、ダークな面も、ハッピーな面も、それらをメタに組み替えている面も包含する、複雑な存在として改めて北海道を捉えるタイミングだろう。イメージの強化・キャラクターの更新だけに気を取られるのではなく、自らの目や耳、手を用いて150年しかない北海道の歴史、それぞれの建物や施設の歴史を振り返る泥臭い作業を始めなくてはならない。作品のカッコいいコマだけを集めることと、都市の歴史や文化を遺さない再開発は文脈を破断するという部分で相似だ。都合のいい切り貼りによる暴力に抗いながら、改めて北海道の歴史や文化を考える必要がある。

(つづく?)


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博物館と『ゴールデンカムイ』博物館学芸員資格を学ぶ通信制大学生からみた北海道と京都のコンテンツツーリズムについて(noteタケチヒロミ(Roulottes),2022年10月19日)
札幌再開発マップ(北海道新聞)
大創業祭 丸井今井・札幌三越
SNOW MIKU ポータルサイト
北乃カムイ公式サイト
北海道 アイヌ政策推進局アイヌ政策課

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