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哲学カフェ「美とは何か?」

第15回哲学カフェ『美とは何か?』
2024.7.19(金) 19:00-21:00 @奉還町4丁目ラウンジカド

説明文:今回は趣向を変えて、美について。美しいもの、美しいこと、美術作品などそういうことについて考えてみたいと思います。人は何に美を感じるのか、人それぞれのように言われやすいようで、普遍的な美についてもよく論じられます。どのような条件?時代や国によらず愛され続けている作品や伝承もたくさんある一方で、趣味嗜好がよくわからず美を感じられないものもあります。人が作ったもの以外にもフィボナッチ数列など自然界の数学的法則に強い美しさを感じる人もいれば、天然石、天体などへの美しさを語る人もいる。あるいはきれいな風貌の人はいろんな人に好かれます。近づきたい存在として立ち現れることもあれば、逆に美しすぎて近づけないという畏れの感情が付随することもあります。それはどのような違いなのでしょうか? 人間の感情や理性など心の働きなども考えながら話してみましょう。



記録:Oさん

参加前:
 芸術作品や文芸作品、宝石、自然など様々なものに対して「美しい」と感じるのは感覚的に共感するところや琴線に触れるところがあるからと思っていました。

参加後:
『変わり続ける美(桜とか夕日とか、現代美術作品でもそのような作品を観た記憶がある)』と『変わらない美(美術品、工芸品、宝石?、造形物など)』に簡単に分けることも出来るのかなと思いました。

また、理論や経験的に知る『考える美』というものがあるという話も興味深かったです。「美しさを感じるのは対象のものと距離があるから」という話も面白く、何か普遍的なテーマのようなものを感じました。遠くから見てるからこそ「美しく」感じるのは思い出や芸術作品でもそうだなぁと思いました。「美化する」という言葉もあるように、「美しい」ものは「穢してはいけない」、「汚してはいけない」と『聖なるもの(聖性)』を帯びたものとして扱う性質や風潮があるのかもしれないと思いました。そう考えると、「美しいと感じるとひれ伏すような感じになる」と仰っていた方がいるのも頷けるなと思いました。

ファシリコメント:
今回のテーマはオスカー・ブル二フィエという哲学対話でよく出てくるフランスの哲学者の絵本「美と芸術って、なに?」でも取り上げられている問いでもあり、哲学者のカントが追求した「真」「善」「美」の問いにもつながる重要な問いでもあるという哲学ではかなり伝統的な問いになると思います。
今回の哲学カフェでは最初の方は美の対象となるものについての話が多く出てきました。自然の風景や言葉(詩や哲学的問い)、音楽、絵画、建築物、人の生き様などなど。しかしながらそこに対して感じる美の感情は人によって様々違いが見られました。美しさをかっこよさや畏れ、敗北感というような感覚として感じる人、面白さや複雑さ、わからなさ、ある種アンバランスさとして感じる人とおられました【シンプルさと複雑さ】。最初は感覚、感じることなどに意識が向いていましたが、次第に、抽象的なものや一見とっつきにくい芸術作品の話から、美を感覚的に感じるだけでなく、わかるかどうかという話に入っていきました。ある対象物を見た時にそこに感じる美の感覚、それを感じない芸術作品があった場合に、ただわからないというだけで退けるのではなく、あえてわかろう、知ろうとして入っていくことで、表面的に感じていた美の感覚から一歩進んでいく感覚があるという話も【感じる/感じないからわかる/わからないへ】。
それから時代によって美の感覚が違うこと、例えば縄文土器を作った古代人の美点感覚を直接知ることはできないが、現代の人々から見れば、その時代は違う感覚があったのだろうということに思いを馳せる人も。わからなさのなかで、自分の美的感覚と、古代の美的感覚を照らしながら芸術作品に触れるのは深く知れそうな気がします。

Oさんは廃墟に美しさを感じるということを話されたのですが、廃墟は管理や暮らしの面から見ればとても迷惑で困る存在ということを話される人もいました。隣家への被害、その家の内部がどういう状態になっているかで場合によっては危険であること、その家の持ち主はどうなっているのか、法的な問題も絡んでくる場合もある、、その時は美ということから逸れましたが、そのなかで、【日常性のスイッチ】が入っている人、それから【美の感覚のスイッチ】が入っている人といる可能性が考えられました。美というものを感じるためには、日常や暮らしの具体的な“しなければならない“出来事からは離れる必要があるのか?そのなかで対象との「距離感」という話が出てきました。廃墟に美しさを感じるという感覚は私にもありますが、その感覚が出てくるのはその廃墟と私の日常的な関係性があまりないからなのでしょう。日常的な関係性が存在すれば、距離が近くなり、いろいろ問題が見えてきてうんざりする。おそらくそのような存在として立ち現れると美の対象とはなり得ない可能性も【対象物との距離感】。確かにここにはOさんが言われるように、普遍的なものが存在するように思います。廃墟に限った話ではありませんが、美の対象に感じる畏れの感情はある意味で距離感のことなのかもしれません。距離感をとることが大事なのかもしれません。あるいは近づけない、神聖なものとして立ち現れるものとしても。この辺りはまたじっくり掘り下げてみたいテーマです。
後半の方は徐々に美そのものについての話も出てきました。「美的なものは作為的ではないものの方が美しい」や、「役に立たないからこそ美しい」や、またダイヤモンドの例を出して、感覚的なもの(つまりは光の反射)だけを見ていない、感覚的なものを超えた何かを見ているからこそそこに美を感じているのではないかという話も出ました。そのように考えると、美というのは対象物の側にあるものではなく内側にあるものなのかもしれない【美とは感覚を超えたもの】。プラトンのイデアという概念を引き合いに出された方もいました。
最後の方は、美的なもの、創作物という外部にあるものがメインで話されてきたなかで、美的なものを作る側はどのような意識を持って自分の作品や生み出したものを感じているのか、という話も出てきました。創作物は自分の内面からきているものだが、それとは別に自分の内的な美的感覚から見て良いもの、良くないものは存在している気がするなど語られましたが、この辺りは、別途掘り下げる必要がありそうなテーマです。
あらゆるテーマがそうですが、今回のテーマの美に関しても時代や文化、個人の体験によって大きく変わっていく内容のように思われますが、それとは別の普遍性というものも存在しているような気がします。ある意味でその入り口に立ち始めるところで対話が終了したような。対話の先にある森はさらに深い。。。

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