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不食

※外に出さないと管理が難しいので公開しました。あまり読まれたくないので値段付けています。

食べないと決めること、しないことを決定すること。人の身体は様々な機能を備えている。たとえ○○は食べないという選択をしても、我々の身体は生まれつき異常がなければ、消化酵素を持って、外界から食糧が取り込まれることをあらかじめ前提として、プログラムされている。外界から何かを取り込んで、つまりは食べるという行為を通して、我々は生きながらえるように設計されている。我々の内部に、外界と接することは初期設定になっているのだ。我々は生まれたときからあらゆることを経験して徐々に形作られていくわけでは決してないということ、これは知っておかなければならない極めて大事な開始点である。

食べることは欲から発生する。欲によって、我々は生存を望む。欲が全くなくなってしまい、食事を一切とらなければ、死んでしまう。しかし、欲の過剰によっても人は死んでしまう。太古からの知恵として栄養不足のほうを危険視する我々の身体は、栄養豊富なものを大変おいしく感じる。おいしく感じること、それは欲をかきたてる。食べ過ぎることで、製薬企業がつくる生活習慣病の治療薬を飲み、死なないようにしている。食べ過ぎることが主要な原因の疾患によってものすごい数の世界の人々が亡くなっている。欲をもつ存在としての我々は欲を一切なくしても死ぬし、欲が過剰になることでも死ぬ。バランスが大事だなどと主張したいわけでは決してない。欲はおぞましいものだと言いたいわけでもない。欲を抑える方法をこれから考えていくわけでもない。欲が欲として我々に存在している。そのことで生きている。このどうしようもなさと外界との溶け合いは人間の豊かな可能性と同時に命の切なさの表れでもある。欲と切なさが自分にたえずつきまとう影のように、ときには、いくら振り払っても落ちないシミのように、我々という人間存在とともに欲はあるのだ。

そして食べるという欲は、ただ単に食物を摂取する、だけの意味ではないことも、次第にわかってくる。我々は、感情を食べ、情報を食べ、雰囲気を食べて暮らしている。これらもろもろの"食べること"も欲とともにある。このようにして食べることの範囲を広げてみるのだ。さて、そんな欲のどうしようもなさに振り回される我々が、"不食"を訴えるとは、どういうことか?

食べてみないとその味はわからない。味がわかるとは、合う合わないがわかるということに還元されるだろう。合わないものを避けること、これが不食であろう。いやいや話が簡単すぎる。不食はもっと複雑である。合う合わないとはなにか?昔は食べられなかったものが食べられるようになったとは、合わないものが中立的な立場に移行したということだろう。これは、不食というカテゴリーに入っていたものが、そこから脱したということだ。変化しないことを想定してしまえば、このような発見は訪れないことになる。不食を徹底的に決め込むことは、過去の再発見の機会を失うことである。過去した決断は、未来に溶解する。むしろ未来に鍵がある。その鍵を手に入れるということは、過去に鍵のかけられた箱の中身を再び取り出すことである。合わないものだと捉えて避けていたものや事柄は、そのような気づきを与えるための過去からの伝言でもある。そのように捉えることもできるだろう。不食を訴えることは、否定を与えることで肯定の機会がいずれ訪れるという準備なのかもしれない。正直、ここに書いたことは、誰でもよく起こりうるありふれた現象であるし、誰でも体験したことのある豊かな気づきの話であって何ら面白みはない。しかし確認事項として必要であった。

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