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牛窓の人々が抱える「誇り」と「断念」[連載]第1回

どうも、クイズマスターです。本日から「考えるための映画エッセイ」と題した連載を通じて、映画エッセイをnoteにアップしていこうと思います。今週扱う映画は、4月7日から公開の想田和弘監督の映画『港町』です。

最初に読者の方にお伝えしなければならないことがあります。僕の映画エッセイでは、ほぼ間違いなくネタバレをするつもりです。初回の記事でも書きましたが、これには明確な意図があります。

端的に言えば、映画を見てもらうための映画メディアではなく、映画を通じて深く考えるための映画メディアを立ち上げることによって、個人的な映画体験をより濃密なものにしたい、という想いが根底にあるからです。

そのためには、ネタバレを避けて通ることはできません。なので、未だ映画を見ていない読者の方には、この点についてご理解頂ければと思います。

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牛窓に広がる瀬戸内海 ©Laboratory X, Inc

はじめに

今回、僕は想田監督の作品をはじめて鑑賞したのですが、衝撃的な映画体験でした。その理由を考えてみると、やはり監督が採用されている観察映画(注1)という考え方に沿って制作されているという点が大きいと思います。この手法によって、作品の舞台である岡山県の牛窓という港町がとても濃密な映画的リアリティとして再構成されているからです。

また、スタッフロールを除いた全てのシーンがモノクロであるにも関わらず、牛窓で生活する人たちの驚くべき世界の豊かさを見出すことができます。もしこれがカラーであったとしたら、それはそれで豊かな世界を見出せるでしょう。しかし、モノクロであることによって、その豊かさがより際立って見えます(注2)。

さて、この映画を見終えて、僕が真っ先に考え始めたのは、この人たちが生きる世界って、どんな世界なんだろう?ということです。これほどまでに豊かな世界を生きる牛窓の人たちを見ていると、必ずしもそうでないと分かってはいても、自分のいる世界が貧しい世界であるかのように錯覚してしまったわけです。この問いを手掛かりに少し考えて見たいと思います。

注1;観察映画とは、想田監督独自の撮影手法のことを指します。より詳しく知りたい方は、映画『港町』の公式サイトに掲載された「観察映画の十戒」を参照して見てください。
注2:その一方で、モノクロは、牛窓における過疎化を匂わせる要素でもあります。

牛窓ってどんな世界?

牛窓に住む人たちの世界は、漁業を媒介にして、ある程度その街の中で完結しています。作品内では、魚を取るところから始まり、魚が市場に引き渡され、セリを行い、鮮魚店に届けられ、捌いた魚がお店に並べられ、それが販売され、余った魚を野良猫が食べるという一連のプロセスが圧倒的なディティールで描かれます。映画に登場する人たちのほとんどがこのプロセスに関与しているのです。

これに対して、すごく大雑把に言えば、僕がいる世界は、全世界の最先端を絶えず取り込んでいる東京という都市です。そんな東京では、ありとあらゆる人やモノに溢れかえっています。スーパーに行けば、見知らぬ人が取り、捌き、販売している魚が山のように並べられています。

そのため、映画を通じて牛窓の世界に触れると、<地方VS都市>という古めかしい対立図式を想起してしまうほどです。それはつまり、牛窓に住む人たちの世界は、僕が普段生活するような世界とは全く異なる対立的な世界だということです。

それでは、両者の世界はどのように異なるのか?

これまた大雑把に言ってしまうと、目の前に広がる世界に最も価値があると考えるかどうか、ではないかと思います。

僕がいる世界では、必ずしも目の前の世界を最も価値があるとは考えません。その証拠に、目の前の友達を見るのではなく、スマホの画面を見る人を街でよく見かけます。あるいは、街で行き交う人たちに強い関心を抱くことはありません。

一方、牛窓に住む人たちの世界では、町にいる人たち同士が密接に結び合っています。そして、だからこそ、目の前の他者に対して、無関心ではいられません。目の前の他者がいなければ自分が生きていくことができないからです。

例えば、毎日、車に乗って魚を届けに行く鮮魚店の奥さんは、「この人は今日は〇〇に行ってるから、配達しなくて良いのよ」とカメラに向かって語りかけていましたが、考えてみればこれは驚くべきことです。僕がamanzonで注文した品物を届ける人は決して僕が「いまどこで何をしているか」を知りません。

牛窓の人たちはこういったことを当然のように行っているわけですから、世界に対する態度は、僕とは全く異なります。一方では、毎度見知らぬ人から商品を受け取り、他方は、毎度同じ人から商品を受け取るわけですから。

このように考えてみると、牛窓の世界は極めて希少な世界だと言えるでしょう。ほとんどの村や町が都市化された日本(注3)で未だにこのような町が存在するということをこの映画は報せてくれているように感じました。

注3:そうはいっても、実際には、都市化していない村や町は他にもたくさんあるでしょう。その意味では、牛窓のような世界とは、都市に住む人たちがその存在を覆い隠している世界なのかもしれません。また、牛窓にも当然、テレビや車が利用されているので、都市化の影響を受けていないわけではありません。

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牛窓に生息する野良猫 ©Laboratory X, Inc

ワイちゃんとクミさんに潜む想い

そして、作中に登場する2人の人物には、そのような世界に生きる人たちがおそらく共通して抱えるであろう二つの態度が見て取れます。その2人とは、漁師の「ワイちゃん」と撮影後に亡くなられた「クミさん」です。

魚師のワイちゃんは、作中でも明らかにされていますが、かなり耳が悪くなっているのですが、魚師として漁に出ます。ワイちゃんには、近くに身寄りがおらず、後継者もいないのですが、それでも漁に出るのです。

そんなワイちゃんの姿勢を見て、僕は痺れました。おそらくは父親から教わり、漁業が産業として活気があった時代も経験したであろうワイちゃんが、一つの共同体における重要な役割を継承する意志を体現しているように見えたからです。そこには、人間としてのある種の崇高さを感じました。

つまり、僕から見たワイちゃんには、人間としてのある種の崇高さと共同体の成立とが見事に一致しているということを見て取ることが出来るのです。

一方のクミさんはというと、やはりあのシーンを問題にせざるを得ません。突如自分の家族が失われ、自殺をしようとしていたという悲惨な過去を話すシーンです。別のシーンでは、饒舌な口調で町の色々を話すクミさんが、このシーンだけ怒りと哀しみの込もった声で話しており、ここで初めて牛窓の負の側面が語られるのです。クミさんにはそんな壮絶な過去があったのか、と驚愕すると同時に、これをドキュメンタリーとして撮影した想田監督の力量にも驚愕します。

クミさんは話の中で、「お金を儲けるために行政が家族を盗んだ」といった表現をしていました。行政がそのような不誠実なことをしないという前提に立つと、おそらく行政側は、クミさんが学校に通っていないことや高齢者であることなどの理由から、クミさんには子供を育てる能力がないと判断したのでしょう。

このことを知らされていないクミさんと行政との間には、明確なディスコミュニケーションがあったと思われます。詳しい事情が分からないのではっきりとした事実として扱うことはできませんが、もしこれが正しければ、これは行政としてあってはならないことでしょう(注4)。

注4:逆に、クミさんが述べた通りのことを行政が行ったと考えるならば、それはそれで大問題です。いずれにしても行政側に責任があります

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漁師のワイちゃん ©Laboratory X, Inc

牛窓の人たちが立つ地平とは?

しかし、これを別の観点で考えてみることもできます。

ある範囲の中で成立する共同体に所属するということは、その共同体に縛られて生きているということです。言い換えると、その共同体の外部との関係において困難が生じるということです。この観点から言えば、貧しい世界に見えた僕が生きる世界は、牛窓のような狭い共同体に縛られていないという意味で、より自由な世界だと言うことが出来ます。

そのような意味で、クミさんが直面した行政とのディスコミュニケーションは、問題の大方が行政側にあると予想できるとはいえ、共同体に依存する者の外部との関係における不自由さに由来すると言えるでしょう。

おそらく、行政側からすればクミさんの家族を盗んだつもりはないのでしょうが、クミさんにとっては、そのように理解され、そのことによって自殺未遂にまで追い込まれたわけです。一連の出来事によるクミさんの精神的な影響は計り知れません。

ですが、話すクミさんを見ていると、僕がいま述べたようなことをどこかで分かっていたような気がしてなりません。不条理な現実をクミさんなりに理解しようとした結果、現実に対する断念が生じ、それが彼女の語り口に反映されているように見えたからです。それは、正確には覚えていませんが、「私は生に執着していない」といった内容のことをクミさんが口走ったシーンから伺うことができます。

このことは、悲惨な現実に突き当たったクミさんがなお生き続けた理由とも関係していると思います。つまり、クミさんは現実に対する断念を通じて、何とかこれまで生き続けてきたわけです。

しかし、その根底には、深い絶望が横たわっていることでしょう。さらに言えば、このような深い絶望は、身寄りがおらず、自分の仕事の後継者もいないワイちゃんも抱えているであろうことは想像に難くありません。

したがって、共同体に依存する者の外部との関係における不自由さを背景にした断念こそが、この街に住む人たちの感覚として共有されているのではないでしょうか。

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亡くなられたクミさん ©Laboratory X, Inc

僕から見た牛窓

このように考えてみると、ワイちゃんとクミちゃんにはそれぞれ、自分たちの生きる牛窓という世界についての「誇り」と、その世界に生きるがゆえに生じた「断念」という共通の地平から現出した二つの態度を見出すことができると思います。そして、それぞれの想いは、都市空間に代表される世界との対比を通じて、より先鋭化されて牛窓の人々の間に共有されているはずです(注7)。この街に生きる人たちは皆、多かれ少なかれ、この相反する二つの想いを抱えながら生きているように思われます。

牛窓を舞台に登場する町の人たちは、有無を言わせぬ説得力をもって、失われつつある世界の豊かさと、そこに生きる人たちが抱える深い想いを、ゆったりとした時間意識の中で訴えかけているように僕には感じられました。

我々は、自分たちが選択してきたことによって形作られた世界の有り様を振り返ってみる時期に差し掛かっているのではないでしょうか。

注7;なぜなら、注3でも述べたように、牛窓とて、都市化の影響を被っているからです。

より深く考えたい方のために

以下では、映画『港町』に関する記事をピックアップしています。より深く考えたい方は、こちらの記事も参照して見てください。

『港町』に見る、想田和弘ドキュメンタリーの力 濱口竜介が解説
想田監督の「観察映画」の特徴とそれが作品に与えた影響について、次回作の『ザ・ビック・ハウス』と共にまとめられている。技術的な側面を手掛かりに映画を紐解きたい方におすすめ!

想田和弘監督インタビュー「より良く生きるための「観察」のススメ:新作『港町』をめぐって」
雑誌『KOKKO(こっこう)』31号に掲載された想田監督へのインタビュー。想田監督自身による『港町』評と観察映画という手法を用いる意図をお話しされています。

interview 007 想田和弘さん(『港町』監督・製作・撮影・編集)
制作の経緯から作品の意義や背景などを想田監督が熱く語られている記事です。インタビュアーの方の力量が伺えます。

次週の予告

次週は、1985年公開の相米慎二監督による映画『台風クラブ』を扱います。

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映画『台風クラブ』のポスター 映画.comより引用

連載2回目で早速、過去の映画で大変恐縮なのですが、いまの僕たちが見てもこれはかなり面白く熱い作品です。また、今回扱った映画『港町』とも関連する部分があります。お時間のある方は、是非ご覧になって見て下さい。

また、下記のコメント欄にて映画『港町』についてのコメント、あるいは僕の映画エッセイについてのコメントを頂ければ、お返事致しますので、ご気軽にコメントしてください。

それでは、また来週お会いしましょう!

クイズマスター

noteでのメディア活動は、採算を取れるかどうかに関わらず継続していくつもりです。これからもたくさん記事を掲載していきますので、ご期待下さい。