いじめとは何かについての序論
今回は、「いじめ」についてである。故あって書き出したのだが、詳細はまだ書けそうにない。とりあえず、この今年4月から翌年3月までは、「いじめ」についての考究は続きそうである。とりあえず、今回は「いじめ」を調べ、考えだして1カ月弱のいま辿りついているところを記録しておこうと考えている。
「いじめ」の定義の変遷
「いじめ」の定義について文部科学省・政府の資料を調べてみると、どうやら変遷があるらしい。なお、変遷は文部科学省による「いじめの定義の変遷」(クリックすると PDF ファイルがダウンロードされます)に拠る。
昭和 61 年(1986年)の定義を見てみると以上の通りである。学校の内外を問わず、強い者がそうでない者に対して、一方的に、心理的・肉体的に関わらず継続性をもって攻撃を加え、相手が苦痛を感じているもののうち、学校が事実を把握しているものを言うらしい。
この定義であれば、学校として「いじめ」の事実を確認していなければ、それは「いじめ」ではないと言える。つまり、学校からの「いじめ」認定がなければ、深刻な苦痛を感じさせるものであっても該当しないおそれがある形となっている。
平成 6 年(1994 年)の定義を見てみると以上の通りである。昭和61年のものと比較すると、「学校としてその事実(関係児童生徒、いじめの内容等)を確認しているもの」が削除され、「個々の行為がいじめに当たるか否かの判断を表面的・形式的に行うことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うこと」が追加されている。
学校による事実認定がなくなった。そして、「いじめ」の事実の認定にあたっては、表面的・形式的でなく、本質的・実質的なアプローチを求めている。これが「いじめられた児童生徒の立場に立って」が指し示すことであろう。当事者(被害者)の立場にたっていじめに当たるかが判断されるのであるから、当然に判断者は当事者ではなく、当事者の視点にいる第三者である。たしかに、当事者が「いじめ」の事実を認定することになれば、いかに恣意的な判断でも覆すことができないことになる。であるから、当事者ではないところに判断者(学校か第三者委員会となるだろう)を置いている。
このように見てみると、「いじめ」を認定するのが、学校から学校等と当事者の間に移っていると言えよう。
平成 18 年(2006 年)の定義を見てみると以上の通りである。「一方的に」「継続的に」「深刻な」が削除され、「いじめられた児童生徒の立場に立って」「一定の人間関係のある者」「攻撃」等が追加されている。
この 12 年で何があったのだろうかと訝しくなるほどの変化である。心理的・物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じさせるものが「いじめ」と理解されることになった。「深刻な苦痛を感じているもの」と比べると、大きな差があるだろう。ひとつ前のものであれば、身体的・心理的な苦痛を生み出す攻撃という行為群を「いじめ」の本体としていたが、この定義によれば「心理的、物理的な攻撃」によって生じた精神的な苦痛の苛烈さこそが本態とされている。
継続性が削除されていることも注目に値する。いじめ行為を一定の期間加えたことが問題となるのではなく、いじめ行為を加えたことが問題となる(当然ではある)。
平成 25 年(2013 年)の定義を見てみると以上の通りである。インターネットにおける行為も「いじめ」に該当するものとなったことは注目に値する。また、いじめ防止対策推進法では、犯罪行為として取り扱われるべきと認められるようになったことが大きな変化である。
「いじめ」とは何か
ここではそれぞれの定義の当否を問うつもりはない。とりあえず、「いじめ」がどのようなものかを解き明かしたい。
いじめの場としての四層構造
犯罪社会学研究第24号に掲載されている松永寛明、大倉祐二による「いじめ現象と学校制度の構造」によれば、「いじめ」は学校制度のフォーマルな側面が外骨格として存在している。まずはじめに、学校が地域社会や各家族からある程度離れ、自立的に運営されていることを挙げる。学校同士も独立し、学校が児童・生徒の行動を規律している。つぎに、年次に応じて学年という枠の中に児童・生徒が配置されている。各学年は互いに排他的に構成されており、行き来が基本的にできない。最後に、各児童・生徒は、学級にわけられており、学級担任とクラスの児童・生徒が集団化されている。そのため、基本的に、集団として活動することになり、児童・生徒は他学級に移動することができない。これらのことにより、いじめが行われる場は、学校・学年・学級という三層構造により覆われている。
加えて、仲良しグループ(仲間集団)が構成されることを指摘し、インフォーマルな集団化も発生していると指摘している。フォーマルな閉塞性とインフォーマルな閉塞性が作用し、児童・生徒は一定の空間・場所に固定化されているのである。構造的問題を証するように、同級生によるいじめが7割前後、同学年の者からのいじめが2割程度、合わせて9割前後となることが指摘されている。①学校、②学年、③学級、④仲間集団という枠のうち、②③がいじめの場としては中心となっている(仲間集団は基本的に学級内で構成されるため、③に含んでもよい)。また、いじめの発生場所で最も多いのが、「教室」で 74.87 % にも及ぶ。
他にも、どのようないじめがどのような場で行われるかについては以下のようなデータがある。
このデータを徴するに、「よく遊ぶ・話す」相手からいじめ行為(悪口・からかい、無視・仲間外れ、金品をとる・こわす、うわさ・落書き)が行われることがほとんどである。ただし、「たたく・ける・おどす」いじめ行為だけは、よく遊ぶ・話す者からだけでなく、ときどき話をする者からも同程度に行われている。この結果は、悪口や無視、仲間外れのようにコミュニケーションの場で生起するいじめと、物理的に生じる暴力との関係を意味していると言えよう。このように、いじめが行われる場は、被害者から近い場であることがほとんどである。であれば、そこから逃げることが方策となる。しかし、先の四層構造による枠組みの存在がここで重要となる。学級移動はむずかしく、学年移動は一層むずかしく(可能か?)、学校移動は処理が大変である。仲間集団からの離脱は可能であるが、学級・教室から移動することがむずかしいことから、いずれにせよ逃げ出すことは容易ではない。構造的な制度が極めて強い拘束性をもっているのである。この逃げがたい枠組みの中で、いじめは行われる。また、いじめの事実を誰に話したかの調査については、以下のような結果が出ている。
一定の枠構造の中で行われていることから、逃げたい場合、その枠の外に向かうことが妥当であろう。しかし、相談相手の選定から興味ぶかいことが分かる。有意に数値の高い上位4つの相談相手のうち学級の外に属するものは、保護者だけである。友達・学級担任という構造的には学級層に属する可能性の高い者に相談することが多く、まただれにも言わなかったの数値も高くなっている。実際には「だれにも言えなかった」のであろうが。たとえば、この点について、同論文で「いじめは学級や仲間集団というせまい範囲で発生し、いじめにたいする処理手段も空間的・社会関係的に限られた範囲にとどめられている」と述べられている。「いじめ」はせまい範囲で行われるのだから、その範囲の外に行ってしまえばいい。しかし、社会関係は親しい者との間に取り結ばれるものであり、その親しい者との出会いは構造の中で生じる。つまり、フォーマルな構造をベースに、インフォーマルな関係が樹立されているのであり、そのフォーマルな構造から別のところに移動しなければ、インフォーマルな関係から離脱できないことになる。したがって、第三者の動員は極めてむずかしい事実が現前することになる。隘路である。
いじめ被害者の状態
このように、構造的範囲の外から人を呼び寄せることがむずかしいため、いじめの処理につき第三者を動員することやいじめの関係から脱することは構造的に制限または閉鎖されている。この時、「いじめ」を終わらせる手段は、いじめを行っている者に直接的に抗することになる。しかし、そもそも、「いじめ」は、いじめる側の優位性を前提としているものであるから、対等な交渉や反抗は困難であり、消極的な対応(我慢する等)しかとれないのである。具体的な「いじめ」行為によって被害者は傷つき、反抗の無意味さに打ちひしがれることになる。そしてそれにより、反抗する意志がそがれる。それどころか、自身で反抗していないかを検討するようになるのであろう(なんだか、ミシェル・フーコーの言う「監獄」のようである)。
この消極的な在り方について、八ツ塚一郎が興味深い指摘をしている。
「いじめられる」ことは、単純な能動と受動の関係性の中にあるわけではない。被害者は、状態を制御する一切の積極性と主体性が奪われており、無力化されているのである。
いじめにおける集団内秩序
「いじめ」について、石飛和彦が「「いじめ」の実践的行為の形式構造」で重要な指摘をしている。
人間が加害行為を受ける際には、加害を受ける一般にも通用する妥当な理由が存在しており、そして、加害行為はその妥当な理由を欠いている場合、一定のグループ内で相互に押しとどめる仕組みがはたらくのである。この時、「いじめ」という加害行為が実際に行われるのは、集団内でそれを抑制する規範があるにもかかわらず、一人ひとりの動きが制限されず、さらに集団内の他者を制限する言動や状態が構築されていないことを意味する。
「いじめ」には、一定の集団内ではたらくべき抑止がはたらいていない状態で、加害行為がおこなわれる様態を伴っていることになる。その様態がつづくと、抑止をしないことが当然の状態となり、なにもしないことが普通のことになる。加えて、周辺にいる者は自らがターゲットになることを避けるため抑止行動をとらない/とれないことも想定される。すると、反抗が否定され、抑止が否定されていることになる。いいかえれば、「いじめ」には、行為が否定される―文脈への埋め込み性が存在することになる。以上から、いじめは、①加害行為と②被害者の無力化、③加害への無抑止(行為の否定)によって構成されると言える。いじめ問題を考える時には、加害と無抑止の両面を考慮に入れる必要があるのだ。
サバルタンとの類似性
ここで話頭を転じる。ガヤトリ・スピヴァクの著作に『サバルタンは語ることができるか』がある。この著作では、植民統治において抑圧・疎外された人びとのことを「サバルタン」と呼んでいる。サバルタンは、抑圧され、疎外された人びとのことであり、自力で自ら(被害者自身)を語ることができなくなる。そして、この被害者を論じる知識人に問題があるとスピヴァクは指摘する。というのも、「みずからを透明な存在として表彰している」だけでなく、中立的な立場から論じているようで、サバルタンの特定の側面だけを選択的に集め、像を結んでおり、被害者を当該領域内に存在する愚かな権力者や伝統から抑圧される者と理解し、それらに抗する力を備えていない者と整理する。このことにより、愚かな伝統に従順である被害者像を強要するのである。この点を捉えて八ツ塚は、「いじめ」を以下のように論じる。
わたしたちは現実的な「いじめ」を語る時、このように論じていないだろうか。「いじめ」られる者を愚かにも状況として暴力に抗しなかったもの、と。「いじめ」行為は、能動性を有する加害者とそれを強いられる被害者、また抑止できない状態にある傍観者の間で行われる。「いじめ」を語る、または救済する時に「いじめ被害者」をどのように理解するのか、また主体性を損なうことなく権利の回復を可能とするにはどのようにすればいいのか。ここが問題である。
「ふざけていただけ」「からかっていただけ」といった弁疎がまかり通ることから、「いじめ」行為はプロセスとして進行しているにも関わらず、問題化するのは―自殺や自殺未遂といった決定的な事態が出来してから―結果としてであることにも目を向ける必要である。状況をコントロールする積極性や主体性が強奪されているのだ。この評価を誤ってきたために、いじめがなくならなかったのであろう。
「いじめ」は、①加害行為と②被害者の無力化、③加害への無抑止(行為の否定)によって構成されており、また④評価の過誤によって撲滅できていないのであろう。
さいごに
この辺りで筆をおくことにするが、それは想定よりも、現象ないし行為としての「いじめ」は複雑であることを思い知ったからである。他の文献を用いて贅言を弄することは可能であるが、まだ思考力も情報も実力も足りていない。そのため、一旦ここで擱筆することとする。勉強します。ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。