#33 わい、シャバシャバな洋食屋のカレーって、なんか好きやねん。
申し上げます。申し上げます。旦那さま。私は、神に誓って申し上げますが、恥ずかしながら、洋食屋さんのシャバいカレーが好きです。はい、おっしゃる通り、ガチガチのスパイシーなインドカレーが一番好きです。しかし、飴色たまねぎが溶け込みコンソメが効いたような、それでいて一本芯の通った、温かな洋食屋さんのシャバシャバシャバシャバしたカレーが好きなんです。ああ、我慢ならない。
はい、はい、落ち着いて申し上げます。あの類のカレーを見たら、食べずにおいてはおけません。特にこう寒さが骨身に滲み入る季節になっては。
告白します。渋谷から宮益坂を登って裏道にはいると、地下に居を構えたおまかせ亭というお店があるのです。こうなったら、何もかも包み隠さず申し上げます。そのお店はカレーを出してはいても、カレー屋さんではありません。洋食屋なのです。ずいぶん歴史のあるお店と見えて、オープンキッチンの店内は広々とし、帽子をかぶったコックさんがハキハキと動いている様は、晴れ晴れするほどです。
接客もまた素敵です。扉を開けると、ダンディーなおじさまの店員さんは私を見るやいなや、なんとタメ口で挨拶をしてきました。初めてお店に来たにもかかわらず、ちょうど親戚のおじさんと再会したかのように。馴れ馴れしくなく、かといって距離を感じさせないような自然な挨拶です。「よっ久しぶり元気?今日もカレーあるよ。」みたいな。ついでにお年玉もくれそうな勢いです。案内されカウンターについた私は迷わずオニオンカレーライスを注文し、カレーが到着するのを待つ間、ご祝儀袋に先刻購入した筆ペンで金額と名前を記入していました。そうです、ちょうどこの日はあの人の結婚式だったのです。おめでたい気持ちと、カレーを食べることで高まった気持ちが両方入り乱れてしまっていました。サラダを間に挟み、ソースパンに入ったカレーが目の前に運ばれてきました。
そのとき、私はこのカレーを心底美しいと思った。そして、美しいままにこのカレーを平らげてしまわねばならぬ、と密かに決意したのです。
シャバシャバシャバシャバと、ゲシュタルト崩壊さえ起こさせそうなそのカレーには、飴色玉ねぎがたっぷり溶け込んでいやがる!辛さもほとんどない。西洋野菜と、たっぷりのハーブが香るマリヤの慈愛のスープ。ご飯の上には揚げパンと大振りにカットされた揚げ野菜が乗っている。ああ、揚げパンをひたしたらそれはもうオニオングラタンスープではないか。なんと罪深い食べ物だろう。断じて、放っては置けぬ。
ええいもう辛抱効かぬと、野菜をカットし、カレーをぶっかけること海の如し。玉ねぎの固形分がご飯の上に残り、汁が下に染みでる。こう言う光景を私は何度目の当たりにしてきたことか。私は悲喜交交、咽び泣きながら、カレーを、ただただ食べたのです。
ああ、すでにお気づきでしょう。それからというもの、私がシャバシャバの洋食カレーを食べたのはそのとき一度だけではないのです。笑うならば笑ってください。それだけのことを私はしたのです。あの快楽が忘れられず、JR田町駅、地下鉄ならば三田駅が最寄りのこのリストランテ、サンギュリエに来てしまったのです。パスタやシチューも充実している洋食屋さんですが、カレーがとても美味しそうだったのです。ふらっと迷い込むなんて完全にどうかしていました。カレーはムルギーとなすの二種類があるのですか?当たり前でしょう、二つともお願い致します。
ムルギーがテーブルにやって参りました。大きな鳥レッグがごはんの上にのっかって、スープのようなカレーがぶっかけてあります。香りとコンソメのうまみで大変なことになっています。ちくしょうざまあみろ。旦那さま、嗅覚は脳をダイレクトに刺激するのですね。
唐辛子ペースト!この辛味調味料は、ただ辛いだけではなくうまみが増すのですね。入れる量によってどんどん味わいが変化していきます。あいや、とまらねえ。焼きナスのカレーは、ベースは共通なのですが明らかにファーストノートが異なります。これは一体何でしょうか?そうです、カルダモンでしょう。揚げなすのとろけそうな食感がたまりません。構成要素はなすと米だけなのですが、チキンコンソメの風味が食欲をそそります。
勢いづくままに食べ終わってしまいそうです。こちらのカレーはご飯に直接ぶっかけてあるのでだんだんと水分を吸って食感が変わってきます。それもまたよし。リゾット風に楽しむこともできるのです。本来はぶどう酒などたらふく飲んだあとに宴のシメとして食べるものなのかもしれませんが、単体でも十分楽しめる実力があります。おや、お会計。なに、このカレーがたったの千円?いいえ、何かの間違いではないのか。間違いに決まっている!言い値を払いますから私の気が変わらぬうちに申し付けるがよい。カレー屋に支払う金はカレーという存在、文化への投資だ。いいえ、ごめんなさい。私もケチなサラリーマンだ、月に使えるカレー代は限られている。千円払いましょう。金。世の中は金だけだ。ああ、早く旅に出たい。はい、ありがとうございます。また来ます。はい、はい、申し遅れました。私はカレー哲学。へっへ。労働者のカレー哲学。