人新世の原因と(古典)エントロピー経済学の失敗、そして偉大なるデカルト。

前の投稿(経済現象解読のための熱力学のすすめ)でも触れたように、物質的世界も精神(情報)的世界もエントロピーは変化するとすれば全体としては増大する方向である。そして、既存のシステムというものはその逃れられない原則に沿うように形作られている。したがって一定程度はどうしてもエントロピーを増大させなければシステムそのものが成り立たない。

しかし、物質的世界においてはエントロピーの増大は緩やかであるに越したことはない。

老いることをことさら喜ぶ人もそう多くはないであろうし、損失など少ないに越したことはない。

だが、一方で、精神(情報)的世界においてはむしろエントロピーは増大すればするほど良いものと考えられているし、実際にそうである。なぜならそれは適応的であることを意味するからである。温暖化で滅びないために、火星に逃れる道を捨て、地球と心中するのでは意味がない。(もちろん温暖化で滅びることを推奨している訳ではない。)

良く、仕事を通して精神的に成長する、などという言葉が聞かれる。

問題なのは(既存の形態の)仕事によって物質的世界のエントロピーが増大してしまう、つまり、増大すればするほど良いとされる精神的世界のエントロピーを増大させるために、できれば必要以上に増大させたくない物質的世界のエントロピーが、引きずられる形で必要以上に増大してしまうことなのである。これが人新世が生じる原因である。

しかし、既に述べたように、精神的世界のエントロピーを増大させることは適応的であることを意味するのだから、物質的世界のエントロピーを増大させないために、精神的世界のエントロピーまでも増大できないようにしてしまおうとするなど言語道断である。しかし、この辺りのフォローを怠ったために(古典)エントロピー経済学は失敗した。

デカルトは言った、「困難は分割せよ」と。そして、物心二元論。

幸い、情報・通信の技術は充分に発達し、ちゃちっこいソーラーパネルでもある程度、機器を稼動できるまでになってきている。これも良く言われることだが、温暖化の要因たる電力というものは情報・通信にこそ適したものなのである。実際に物質的世界に作用するのは、ごく限られた必要欠くべからざる部門に留めるべきなのである。

私は学生時代に実験の単位を取るに当たって、そのコストパフォーマンスの悪さにつくづく反吐が出たものだった。

実験すべき事象への理解はもとより、実験という考え方やら方法論的なものに対する哲学さえも確立できていない、することもできない状態でこんなものを何本こなそうが、全くもってあらゆる資源の無駄である。

実験は大事だがホモサピエンス一匹の精神的成長のためにこんなに資源を消費していては、それは人新世も起きよう。しかし、それが尊いことであると言うなら、やはりやり方は徹底的に見直されなければならない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?