ロゼッタストーンと数学的帰納法、そして教育的配慮と継承の問題

ロゼッタストーンと言えば、同一の文章が3種類の文字で書かれていることにより、解読可能な文字(ギリシャ文字)から解読されていなかった文字(ヒエログリフ)を解読するための鍵となった石碑であり、このことから、部分から全体を捉える慣用表現としても用いられている。

同様に、数列の問題では、与えられた数の組からその数列の一般項を求める。我々は3次元空間の中にいるため、それ以下の次元に対する認識しか持ち合わせていない。しかし、上に述べた思考法により、4次元以上の高次の空間の取り扱いが可能となった。

ところで、小学校の国語教材の定番、新美南吉の『ごんぎつね』では、教育的配慮により最後の場面で、「権狐は、ぐったりなったまま、うれしくなりました。」ではなく「ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました。」が採用されている。ごんの心情を考えさせるためである。これが倫理の授業ならば、様々な考え方、感じ方があることに焦点を当てることも有意義であろう。しかし、国語の授業として考えた場合には物語の全体、つまり文脈の上ではこの部分が嬉しい気持ちであるというところに導いていくことが必要となるであろう。もっとも、石原千秋著『国語教科書の思想』 (ちくま新書)によれば、国語という教科の機能上それは難しいことなのかもしれない。

継承の問題においては、知的財産権やら発展性への配慮からか、やはりはっきりと必要なことを教えるということがないように思われる。知識や技術に現在とは比較にならないほど大きな価値があり、人々がそれを得るために熱意に溢れていた頃はそれでも良かったかもしれない。人々は関心を惹く情報といくらかの鍵が与えられれば、意欲的に考え、更に大きな全体を求めて行動できていた。しかし、現在はその様な状況には全くない。「叱られないから不安になって、」までは良しとしよう。なぜ辞めていくのか。叱られないことに胡座をかいてぐいぐいと当たっていけば良いのではないか。それが明らかにはっきりとは伝えられないことだとしても、鍵となるものを方向を変えて引き出せるように努力すれば良いのではないか。伝える側はなぜ、叱れたときは必要のないことまでぐいぐい伝えられたのに叱れなくなった途端、必要なことまで伝えられなくなってしまったのだろうか。人間、面と向かうと感情が乗ってしまうものだ。それが必要なことなら情報として残しておくべきだ。今の人々にはロゼッタストーンを作ることも、解読することもできない。知的財産権は西側が、発展性は東側の失敗が影響している。東側が成功する方法を考えることと、“ロゼッタストーン”の継承がこの文明を維持できるかどうかの鍵となる。

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