大衆と公衆
大衆は断熱的、つまり評価情報の授受による価値観の改訂を行わない存在であり、立場を変えようとすることはない。立場を押し通すために発話自体は多くなるが、その内容はその立場の定義そのものでしかなく重複しているため実質的には無いものとして見なせ(1という数が素数ではないように)、分からせようとすることはあるが分かろうとすることはない。
ところで、鉄という金属は金属としては熱伝導率が低い。これまでに述べてきたこと(12.島宇宙化と権威主義、13.生きる意味とアノミー、14.自我状態モデルと社会ネットワーク理論、ただし12.13.はU(1)理論、14.はSU(3)理論、つまり1つのハードウェアで異なる演算をしている可能性があり、ここでは前者を問題にしている。)から推測すると、3次元空間上で情報処理を最適化しようとすると大衆的振る舞いが立ち現れる可能性がある。つまり、およそ脳を持つ生物、特にホモサピエンス(領野の数的に)は大脳生理学的、情報統計力学的、結び目理論的な必然から大衆性を獲得する可能性がある。ゆえに次の定理が成り立つ。
定理:性悪説
適切な処置をされていないホモサピエンスは適切な処置をされたホモサピエンスとの間でさえ決して分かり合うことができない。
公衆ならば大衆とは真逆の存在であるため、異なる事物を心の底から尊重し、協働することができる。しかし、基本的に分かり合えない存在である大衆が、分かり合えることを前提としなければ成立しない社会という環境に半ば強制的に放り込まれたならば衝突を避けることはできない。
教育という対症療法がどの程度の効果を持つかは定かではないが、ここでは再び人材の浪費、つまり冗長化を提案したい。見学者の枠と、見学者を疎ましく思わずに済むだけの労働量の維持とを、社会的に必要欠くべからざる労働に限定することで実現するのである。
見学、すなわち、自然科学的にはパターン認識、社会科学的にはエスノメソドロジー、人文科学的にはモデリングと呼ばれる方法によって、労働の内容のみならず、協働の仕方も学習するのである。見学者の枠には流動性を確保し、もし学習に失敗しても、必要な労働を一通り学習することで、独立してもやっていけるようにするのである。
それすらも、社会的には実行できないとなると、残るは、上座部的にそれぞれがそれぞれの考える方舟を作るとともに、その情報を公開しておくしかない。