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『条件フィルター』の闇と光――マッチングアプリ時代を哲学者ショーペンハウアーとブーバーが激論

「もしも著名な哲学者や心理学者が現代にタイムスリップして、私たちの身近な悩みや疑問に答えたら……?」


本日のお悩み

最近、マッチングアプリでの出会いが増えたんですが、正直なところ、もう何が良いのかよくわからなくなってきました。最初は「便利だな、いろんな人に会えるな」ってウキウキしてたんですけど、気づけば相手をプロフィールとか条件ばっかりで選んでて、相手の人柄をちゃんと見てない気がするんです。

たとえば「年収」とか「学歴」とか「趣味」とか、そういう条件で絞り込んでいくんだけど、いざマッチして実際に話してみると、何となくピンと来なかったりします。そもそも、こんなふうに条件でしか人を見れなくなってる自分って、どうなんでしょうか。


登場人物紹介


アルトゥル・ショーペンハウアー(1788–1860):

ドイツの厭世哲学者。人生を苦痛に満ちた欲望の連続と捉え、人間は常に不安や不足を抱え、他者も自分の欲望を満たす手段と見てしまう存在だと見る。彼は条件重視が「当たり前」に見える理由を、人の弱さや恐怖に還元し、厳しく直視させるだろう。「どうせ満たされない」前提で冷徹に事態をえぐる。

マルティン・ブーバー(1878–1965):

オーストリア出身のユダヤ哲学者。『我と汝』を著し、人間関係を「我-汝(I-Thou)」対「我-それ(I-It)」のフレームで捉える。人を条件で見る行為は「それ」扱いであり、相手を生ける存在として遇する「汝」の視点を失うと警告する。彼は関係の生々しさ、不確実性を肯定し、そこにこそ人間的な深みや真の交わりが宿ると説く。


対談

司会者:今日は『マッチングアプリで条件優先になって人柄を見失う』悩みです。お二人、これをどう捉えますか?

ショーペンハウアー:人間が条件で相手を測るのは当然の帰結だ。欲望と不安にまみれ、失望を避けたいから、条件という安全策をとる。だが、満たされない欠乏感は残るだけだ。

ブーバー:しかし、その態度では相手はモノ扱いだよ。『汝』として出会うはずの相手が『それ』になってしまう。条件は君の恐れを隠す盾でしかない。そこには生きた交流がない。

「我-汝」という関係の補足説明
「我-汝(I-Thou)」は哲学者マルティン・ブーバーが提唱した、人間同士の理想的な対話的関係を示す概念です。ここでいう「汝(Thou)」は、目の前の相手を一人の生きた存在としてそのまま受け止めることを意味します。互いを条件や役割、属性といった「モノ扱い(それ扱い)」せず、固定化できない生きた相手として向き合うことで、初めて豊かな人間関係が成立する。ブーバーは、この「我-汝」的な関係こそが、人間が本当の意味で「相手がそこにいる」と感じる瞬間を生むと考えました。

司会者:ショーペンさん、あなたは人間を欲望の奴隷として捉え、条件主義を当然と見る。一方、ブーバーさんは、条件主義は生の出会いを殺すと警告する。違いますね?

ショーペンハウアー:ああ、私は人間が究極的に満たされず、条件に頼るのは不安の裏返しだと見る。そこに希望は少ない。

ブーバー:私は、条件を超えた出会いの可能性を重視する。条件に頼るのは、未知への恐怖。しかし、その恐怖を受け止めて踏み込めば、『汝』という生々しい他者への道が開くと信じている。

司会者:相談者は違和感を感じてるんです。条件で選ぶと安心なはずなのに、なぜ満たされない?

ショーペンハウアー:なぜなら欲望は底なしだからだ。年収や学歴でフィルターをかけても、次はもっといい条件を求める。それは欲望を煽るループで、相手を何度も『それ』として使い捨てるだけ。満足は来ない。

ブーバー:違和感は内なる声が『こんな選び方では人間の真実には届けない』と叫んでいるんだ。君の魂は条件の裏に潜む本当の人間性を求めているのに、恐怖で踏み出せていない。

司会者:ブーバーさんは『汝』関係を強調しますが、具体的にどう踏み出す?

ブーバー:例えば、相手に『なぜそれが好きなの?』と感情や価値観を問いかけてみる。条件じゃなく、相手の内面に触れる質問だ。そこで得られる答えが期待以下でも、その生のやり取りこそが『汝』への扉。

ショーペンハウアー:無駄かもしれない、と私なら言うね。なぜなら人は都合のいい答えを返さない場合も多いから。結局、失望するかもしれないだろう。

司会者:ショーペンさんは終始厭世的ですね。なぜそこまで悲観?

ショーペンハウアー:人間は満たされない存在だからだ。条件で選ぶのも、深い交流を求めるのも、最終的には欲望と不安に囚われる。私は、そうした不毛さを隠さず突きつけているだけさ。

ブーバー:確かに不確実性は消せない。でもだからこそ、真の関係は奇跡的なんだ。諦めずに『汝』に向き合う勇気があれば、その奇跡を垣間見ることがある。私はそこに人間的希望を見出す。

司会者:じゃあ、この違和感を感じる相談者はどうするべき? ショーペンさん流に言えば『無駄を覚悟しろ』、ブーバーさん流では『勇気を出せば世界は広がる』?

ショーペンハウアー:その通りだ。私は冷たく言うなら、失望するかもしれないが、それも人生。条件で守ったっていずれ虚しさを感じる。どうせ避けられないなら、本質に目を向けろと。

ブーバー:一方で私は、失望も含めて意味があると考える。条件ではなく、相手を『汝』として捉えれば、痛みを伴うが、その中でしか育たない深い理解や豊かな感情が生まれる可能性がある。

司会者:つまり、ショーペンハウアーは不満足を前提として、そこから逃れられない苦境を指摘。ブーバーはその苦境を認めた上で、一歩踏み込むことの価値を強調するわけですね。

ショーペンハウアー:私からすれば、ブーバーの言う『可能性』は儚い夢のようだ。だが、一理ある。人間は幻に賭けることでしか生の実感を得られないかもしれない。

ブーバー:ショーペンは厭世的だが、その厳しさは人間がどれだけ脆いかを教えてくれる。私はその脆さを受け入れ、その先で『汝』関係が人生を厚みのあるものに転じる可能性を伝えたい。

司会者:相談者は今、条件主義に違和感を持っている。これはすでにブーバー的な『汝』への渇望の兆しか?

ショーペンハウアー:そうかもしれない。つまり欲望だけで突き進んでも満足がないことを薄々感じ取ったのだろう。けれど気をつけろ、そこから踏み出してもまた別の苦悩が待っている。

ブーバー:その苦悩こそが、相手を物化しない生きた関係への道しるべだ。踏み出すかどうかは本人次第。だが、違和感は彼を行動へ駆り立てる内なる声だ。

司会者:今まで『痛み』や『不満足』がキーワードでした。ショーペンさんは『苦しみは避けられない』。ブーバーさんは『苦しみを通じてこそ人間的深み』を得られると言う。

ショーペンハウアー:私はあらゆる繋がりが不安定で、最後は満たされないと見る。条件主義はその不安定さを回避しようとするが、実は回避できない。これが私の立場だ。

ブーバー:私は、不安定さを正面から受け入れることで、条件主義では開かない扉があると主張している。その扉の向こうに、本当に相手を『汝』として感じ取れる新しい領域があると信じている。

司会者:二人の違いは、同じ不安定な人間存在を見つめつつ、ショーペンハウアーは『それでも無駄が多い』、ブーバーは『その無駄の中にこそ価値がある』と見る点ですね。

ショーペンハウアー:その通り。私は価値などという楽観はあまり抱かない。痛みは避けられないし、欲望は尽きない。でも人はその事実から逃れられないと知ることが重要だ。

ブーバー:私は、逃れられない脆さと不安を、関係性の成長土壌として捉える。痛みと脆さがなければ、『汝』は現れない。条件主義は安全だが平坦、脆さを受け入れることは危険だが立体的な世界を開く。


まとめ

ショーペンハウアーの視点:

人間は欲望と不安に突き動かされ、条件主義はその欲望をコントロールする戦略に過ぎない。いくら条件を積み重ねても、本質的満足は得られず、虚無が残る。彼は厳しく「どうせ不満足」と突き放すが、その冷徹な見方は、人間がなぜ条件に逃げるかを明確にする。

ブーバーの視点:

人間関係は、本来「汝」と呼びかける生きた出会いによって成立する。条件重視は相手を「それ」と見なす姿勢で、恐れから距離を取り、安全地帯に留まる行為。だが不安定さこそが関係を深める鍵であり、脆さと痛みを通じて真の繋がりが芽生える。ブーバーはそこに可能性と希望を見出す。

二者は、どちらも人間関係の不安定さ・苦しみを認めるが、ショーペンハウアーは「そこから抜け出せない無常」を強調し、ブーバーは「そこを受け入れた上で深い交流が可能になる」と提示する。


本日のゲストの詳細

ショーペンハウアー:

ドイツの哲学者、人生を苦痛に満ちたものと捉える厭世主義者。欲望と欠乏が人を動かし、真の安定や満足は得られないとする。その冷酷な視線は条件主義の裏に潜む人間の弱さをあぶり出す。

マルティン・ブーバー:

ユダヤ思想家で『我と汝』著者。人間関係を「生きた相互作用」として捉え、相手を「それ」扱いすれば味気ない関係しか得られないと警告する。その代わり、恐れや不安を乗り越えて「汝」と対面する時、そこにこそ人生の深みと意味を感じられるという、関係性への肯定的希望を打ち出す。

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