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「うん、とっても繊細で、いつまでも見てられます」
喫茶店のマスターというと、白髪と髭のおじさんを思い浮かべがちだけど、ここのマスターもかつてはそうだった。今は違う。違うといってもずっと同じ人なのだけれど、ようは私たちの認識が変わったのだ。最初は男の人かと思っていたけれど、女性用お手洗いに入って行った彼女はものすごく渋くてかっこいい人だった。
「ごゆっくりどうぞ」
にこやかにそう告げて、カウンターの奥に戻っていくその人を見るためにいつもここへ来ているわけでは決してない。ちょうど私の家と夕香の家から近いし、こぢんまりとして落ち着いているお店の雰囲気が好きだし、そしてぶどうジュースがとても美味しいからだ。そうだ。
「あ、これ金平糖だ、これはラムネかな」
寄ったり引いたり、しばらく写真をたくさん撮っている夕香を見ながら、いつもマスターが作ってくれるお気に入りのそれを飲む。それだけで満たされる。なんだかんだ私は幸せ者だよなぁ、って思う。日々にある程度満足しているからということでもあるのだけれど、だからというか、やっぱり夢とか目標とかそういったものが特にない。色々な人によく言われた。私の両親は二人とも超一流の音楽家。父親はピアニストで、母親はバイオリニスト。私も周囲から期待されているのだけれど、あまり好きになれない。もちろん、音楽は好きだ。でも、何かが違う。
ぼーっと眺める季節限定のそれはとても綺麗で吸い込まれるようで、いつまでも冬であってほしいな、なんて思った。
気まずさはいつのまにかなくなっていた空気に、意を決して本題を口にする。
「私は、私は夕香がつくる世界がさ、とっても好きだよ」
「…… え?」
スマホを持ったまま夕香が私の目を見た。
「この前のあれ、まだハッキリ覚えてる。あの世界観、本当にすごいと思ったから」
「あー、そうなんだ、なんか、恥ずかしいな……」
「ごめん、でも、嘘じゃなくて、本当に心を動かされたんだよ。だから、やめないでほしい。どんな世界でもいいから、夕香の思い描く世界に入ってみたい」
植物の間のあたりから加湿器の音が聞こえてくる。ずっと動いていたそれに今初めて気がついた。
「…… うーん。そこまで言ってくれるのは嬉しいけど、もう何も思いつかないし、書けないんだ。何も出てこないし、本を読んでいるだけでいいかなって」
友達が落ち込んでいるのは悲しいし、つらい。だから私にできることがあれば力になりたかった。あまり触れない方がいいのかなと思って何も聞かないようにしていたけれど、これからも聞かなくても平気かもしれないけど、でも、何かしてあげたかった。そんな日々を過ごしている間に、あの日いきなり小説を書いて見せてくれた。しかもそれには普通じゃない何かを感じた。そこにきっと答えが、答えはなくても手がかりはあるのだと思う。そして何より、夕香が書いた文章は独特の感性があって、いつまでもその世界に浸っていたかった。
「ね、だからさ、色々な思い出をつくろうよ、みんなでも、二人でも、一人でも」
二人で、とそれだけを言うのはなんか避けてしまった。
「まだ見たことのない、いろんなところに出かけよ、ね」
一口分だけ掬われて削れたところからのぞいている、あらわになったその星の光源は、店内の暖かな照明を反射していている金箔だった。
——
「……わたしは、怖いんだ。何かがなくなってしまうのが、終わりが来るのが、どうしようもなく怖い。いつか必ず来る別れの日、消えてしまう自分、それが本当に嫌なの。こうやって瀬奈と過ごすこととか、楽しい思い出があったとしても、どうせ最後には全部なくなるって思うと、不安で、泣きたくなって、全てが嫌になる」
突然堰を切ったように話し始めた夕香は、ふとした時に見せるあの表情をしていた。正面から見つめた綺麗な顔はとてもか弱く儚くて、心がキュッと痛んだ。作られた暖かい空気で満たされているこの空間は、吐く息の白さなど全て覆い隠してしまう。
「だからきっとあの物語は、自分で終わらせることにしたんだと思う、いっそのこと一人で全てを終わらせてやろう、って。自分でもそんなに好きじゃなかった、でも、捨てられなくてずっととってある。こんなこと言っても何もならないのはわかってる、でもわからないんだ、何もかもがわからない」