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著者自身による外国語論文紹介「福利主観主義、洗練性、手続的卓越主義企画趣旨(原題:Welfare Subjectivism, Sophistication, and Procedural Perfectionism)」(石田 柊)【フィルカルVol.9,No.2より】
$${\text{Shu Ishida}}$$
$${\text{Welfare Subjectivism, Sophistication, and Procedural Perfectionism}}$$
$${\textit{journal of Ethics}\text{, 2024}}$$
論文の概要
この論文は、哲学のうち福利論(Theory of Well-Being)に属する。福利とは、大雑把に言えば、ある事物が(他の人にとってはともかく)ある人にとってよかったり悪かったりするという場合に問題になる特殊な価値のことであり、よく道徳的価値や美的価値と対比される。福利論における代表的な哲学的問いは「何が福利を構成するのか」であり、代表的な解答案として、デレク・パーフィットが挙げた三者(快楽説、欲求充足説、客観的リスト説)が知られている。
パーフィットの三案はそれぞれ課題を抱えているため、これらが近年の福利論においてそのままの形で参照されることは少なく、改善の必要性がコンセンサスだと言っても過言ではない。このうち、福利の欲求充足説—事物xが主体Sの福利に資するのは、Sがxの実現を欲求している場合でありかつその場合に限る——を改善する提案として、「欲求」の代わりにもっと制約の強いハイレベルなものを考える立場が提案されてきた*1。代表例として、ただの欲求ではなく知悉欲求(informed desire)を考える立場や、一度きりの欲求ではなく人生全体を対象とする満足(whole-life satisfaction)を考える立場など、福利論者はさまざまに試行錯誤をしてきた。
今回取り上げる論文も、このような欲求充足説の改善という流れに属する。とくに、本論文では、欲求充足説系の福利理論をあらゆる福利主体(福利をもつことができる主体)に適用できるようアップデートすることを試みた。先に触れた「ハイレベルな欲求らしきもの」に訴えるのは、典型的な大人のヒトの福利を考える上ではいい戦略だろう。けれども、子供の福利を考えるときに人生満足を持ち出したり、非ヒト動物がinformed desireを抱くと考えたりするのは、どう考えても無理がある。欲求充足説に倣った枠組みのなかで、子供や非ヒト動物の福利を含めた統一理論を無理なく提案することはできるだろうか。
本論文で提案したのは、最洗練態度説(Most-Sophisticated-Attitude View: MSA)である。約言すれば、MSAは次のような特徴をもつ。第一に、MSAによれば、どの福利主体の福利も、各々の能力に照らして可能な範囲で最も洗練された肯定的・否定的態度によって考えるべきである。典型的には、典型的な大人のヒトの福利は人生満足など複雑なものによって考え、一部の非ヒト動物の福利は単純な欲求によって考える、などといった次第である。第二に、福利の決定規準がこのように能力依存的に変わることは、福利についての議論とは独立して、ある種の卓越主義の観点から正当化される。ただし、MSAは、何がある主体の福利に資するかを卓越主義的に決める(これは通常の意味での卓越主義的福利理論である)わけではなく、何がある主体の福利に資するかを何によって判定するかを卓越主義的に決める。この意味で、MSAは手続的卓越主義の理論である。一連の議論の詳細については、実際に論文を見てほしい。
ところで、MSAはかなり過大要求的な立場だ。たとえば、私の福利は、たしかに人生満足など高度なもので主に測られるべきだろうが、ポテトチップスを食べたいという短絡的な欲求や、人からほめられたいという些末な欲求が、私の福利にまったく関係しないというのは言い過ぎではないだろうか。こうした懸念に応えるため、本論文では、MSAの主張をやや穏健にしたバリエーションを二つ提案している。第一のバリエーションは、すべての肯定的・否定的態度が当人の福利に関係するとしつつ、問題となる態度が洗練されていればいるほど福利に大きな影響を与える(つまり、低度であればあるほど福利への影響力がディスカウントされる)という立場である。これを私はRank-Discounting MSAと呼んでいる。第二のバリエーションは、最も洗練された態度によって福利への影響を判定できない場合には2番目に洗練された態度を参照し、それでも判定できない場合には3番目に洗練された態度を参照し、以下同様に続く立場である。これを私はLexical MSAと呼んでいる。関心がある人は、論文の第4節を参照してほしい。
執筆の背景など
この論文のファーストドラフトは、2020年1月、ストックホルム大学での在外研究から帰国する直前に、スーパーバイザーの先生に見てもらうために急いで書き上げたものである。在外研究中の成果としては、既に「差別の倫理学」分野の論文草稿——後にTheoriaから出版され、私の初めての国際誌論文となった——を書くことができていたが、どうしてもコメントをもらいたい原稿があると先生に伝え、出国前日に急遽ミーティングを入れていただいたことを覚えている。感謝してもし尽くせない。
以後のタイムラインを、手元の記録にある限りで、ごく簡単に示しておきたい。
2020年1月 ファーストドラフト執筆
2020年11月 雑誌Aに投稿、デスクリジェクト
2020年11月 雑誌Bに投稿
2021年2月 雑誌Bからリジェクト(with reviewer’s comments)
2022年6月 国際カンファレンスXで発表
2022年6月 国際カンファレンスYで発表
2022年12月 雑誌Cに投稿
2023年3月 雑誌Cからリジェクト(with associate editor’s comments)
2023年5月 雑誌Dに投稿、デスクリジェクト
2023年5月 雑誌Eに投稿、デスクリジェクト
2023年5月 雑誌Fに投稿
2023年6月 雑誌Fからリジェクト(with reviewer’s comments)
2023年6月 Journal of Ethicsに投稿
2023年12月 Journal of Ethicsからminor revision
2024年1月 Journal of Ethicsに改訂原稿を送る
2024年3月 Journal of Ethicsからアクセプト
民間就職をしたり、転職をしたり、他の仕事で忙しかったりしたため、途中で何度か作業が中断しているが、それを含めると出版まで丸4年かかったことになる。その間に、デスクリジェクトを含む6回のリジェクトと、全面改訂1回を経てきた。それに加えて、この論文を作り込むにあたっては、国際カンファレンスでの2度の発表と、ここに書かれていない無数の研究発表、個人的なコメント依頼など、当時の私が使えた学術的なリソースをほぼフル投入してきた。それが謝辞の長さにも反映されている。この場を借りて、関係者各位には改めて最大限の感謝を申し上げたい。
リジェクト6回を多いと見るか少ないと見るかは、立場や意見がいろいろあるだろう。一般論としては、哲学分野における国際誌の掲載率は決して高くはなく、まして一発アクセプトというのは(少なくとも、一般投稿のフルペーパー論文については)都市伝説だ。実際、私はJournal of Ethicsからの最初の決定(decision)がminor revisionだったことに文字通り狂喜乱舞した。最初からminor revisionだったのもかなり奇跡的なことで、普通であれば、この段階ではmajor revisionでさえかなりの朗報だ。
なぜこうまで苦労して国際誌にこだわるのか。まず明らかにしておきたいのは、私は決して英語が得意ではないし、得意だったことは一度もないということだ。地方生まれ地方育ちの大学第一世代として、私は18歳まで田舎暮らしで、日本語ネイティブ話者以外との接点をろくに持つことなく生きてきた。英語といえば5教科のひとつでしかなく、親に海外旅行に連れて行ってもらったことも、まして留学など行ったこともない。大学の学部でも、英語で開講される授業は意図的に避けていたし、派遣留学生の募集は「自分には関係のないもの」として敬遠してきた。
事情が大きく変わったのは、大学院の博士課程に入ってしばらくしてからだ。英米圏の現代倫理学を本格的に研究するようになって、どうやら私の研究テーマを扱うプレイヤーは日本には多くなく、この分野が盛んに研究されている「本場」は北欧だということを知った。そして、当時出席していたゼミの先生から、英語論文の執筆を強くエンカレッジしていただき、腹を括って英語で書くようになったという経緯がある。当時の私の英語はかなり拙く(今でも大差ないかもしれないが)、自分でもみっともない文章だと感じながら、それでも英語で書いたのは、「この議論はこの人に読んでもらいたい」という明確な相手がいたからであり、その論敵と議論をするためには英語で書く必要があったからだ。
英語で哲学論文を書くのは苦労ばかりではない。必死こいて書いた論文を狙った相手に読んでもらえたり、これまで自分が紙面でしか見たことのない人から国際カンファレンスで「あなたがShu Ishidaか、論文読んだよ」と声をかけられたりすると、自分も国際的な議論の末席をちゃんと汚せていると自覚することができる。引用でもされようものなら一層嬉しい——たとえ引用先でケチョンケチョンに批判されていても。このほか、些末なメリットとしては、日本語論文を書く際にはテクニカルタームの翻訳という問題が付きまとう(well-beingを何と訳すか、prudential valueと訳し分けるか、訳語選定の理由を註でどのくらい説明するかなど)のに対して、英語論文では、そうした外在的な点に認知的リソースを割かれることなく自分のアーギュメントに集中できる。また、少なくとも「分析系」の哲学論文において英語の拙さはそれほど問題にならないということも、強調しておきたい。ペラペラとネイティブ並みの英語を話せなくても、アーギュメントがそれなりに面白くてそれなりに正確であれば、少なくともどこかのジャーナルに引っかかって、掲載のチャンスがあるようだ。
私は、国際誌が日本語雑誌よりも常に格上だなどと主張する気はない。繰り返すように、私が国際誌にこだわっているのは、自分の議論を読ませたい相手が主に国外にいるからにすぎない。もちろん、私の分野で信頼できる研究者が国内にいることは知っている。しかし、数の問題として「読ませたい相手」は国外の方が多い。さらに、良し悪しは別にして、国内の同業者は英語論文を読むことができるのに対して国外の同業者のほとんどは日本語論文を読むことができない*2。そういうわけで、私は、Grammarlyなど使えるものは使って、得意でもなんでもない英語で哲学論文を書いている。
注
このほか、別の潮流として、追加の必要条件として「かつxが客観的に望ましいものである」を付すことで欲求充足説をアップデートしようとする試みもある。これがいわゆる福利の主客ハイブリッド理論である。
この状況自体が言語的不正義(linguistic injustice)だという指摘はもっともだ。私は倫理学者だし、しかも差別論をやっているので、これについて何か言うことはやぶさかではない。しかし、一人のアーリーキャリア研究者として現実的かつ規範的に許容される対応は、英語論文の執筆をボイコットすることではなく、英語ネイティブに対して一定の配慮を道徳的に義務付けることではないか。
石田 柊 Shu Ishida
広島大学 大学院人間社会科学研究科 寄付講座助教。専門は規範倫理学・応用倫理学、とくに福利論・差別論・障害の哲学など。主な論文として “Welfare Subjectivism, Sophistication, and Procedural Perfectionism,” Journal of Ethics (2024)や“What Makes Discrimination Morally Wrong? A Harm-based View Reconsidered,” Theoria (2021)など。
note掲載にあたり最低限の修正を加えました。(フィルカル編集部)