鈴木英仁「性的モノ化とはなにか、(不正だとして)なぜ不正なのか」【試し読み版】
12月20日刊行予定の最新号より、鈴木英仁氏の「性的モノ化とはなにか、(不正だとして)なぜ不正なのか」『フィルカル』Vol.8, No.3, pp. 202–219の冒頭を試し読み版として公開します。
はじめに
「性的モノ化 (sexual objectification)」は、第二派フェミニズムの理論的著作によって注目されることになったテクニカルな用語であったが、いまや学術領域に留まらず、フェミニストによる社会批判の重要概念となっている。
日本においても、「性的モノ化」、「性的対象化」、「性的客体化」といった訳語をあてられ、世に広まりつつある概念だと言えるだろう。
近年では、アニメキャラクターを用いた献血ポスターが性的客体化であるとして批判されたことを記憶している人も多いと思われる。
形式的に言えば、性的モノ化とは、モノではない存在を性的なモノとしてみなすこと、あるいは扱うことである。
鉛筆は単なるモノなのだから、モノ化することはできない。
人間という、モノではない存在をモノ扱いするのがモノ化である。
性的モノ化として非難される典型的な事例としては、ポルノグラフィや性的な強調を含む広告、売買春、性暴力、セクシュアルハラスメント、カジュアルセックスといった行為や表現が挙げられるだろう。
たしかに、こうした事例がなんらかの意味で人間のモノ化を含んでいるという考えにはもっともらしいところがある。
そして、人間が単なるモノ以上の価値を有するとすれば、人間をモノのようにみなすこと、扱うことは不正だと言えそうだ。
しかし、もう少し突き詰めて考えると、この概念が伝える考えは必ずしも明瞭であるとは言えない。
人をモノとして扱うとはより具体的にはどのようなことだろうか。
人間が持つ、モノとは異なる価値とはなんだろうか。
上の形式的な定式化に具体性を与え、その不正さを説明するためには、こうした問いに答える必要がある。
だが、この作業は決して簡単ではない。
なぜなら、1節で詳しく見るように、「モノ」あるいは英語の“object”には様々な内容が含まれ、それに応じて、人間の「モノ扱い (treating as an object)」にも多様な仕方が存在するからである。
さらに、モノ扱いに様々な事柄が含まれるとすれば、それぞれの事例に応じて道徳的評価も異なってくると予想できる。
つまり、性的モノ化が一般に不正であるとしても、それがどのようなモノ扱いであるかによって、不正さの度合いや種類は異なるだろう。
もしかすると、不正どころか望ましいモノ化さえ存在するかもしれない。
以上の考察から、性的モノ化にかかわる二つの哲学的問題群が浮かび上がってくる。
第一に、ある人を性的にモノ化するとはどのようなことか、という「概念的問題」である。
そして第二に、性的モノ化はどのような場合に、どのような理由で、どの程度不正であるのか(そもそも不正ではないのか)、という「道徳的問題」である。
本稿の目的は、英語圏の哲学・倫理学分野における性的モノ化についての議論のサーベイを通じて、主要な論点を概観し、上の二つの問題の見取り図を素描することである。
はじめに、1節では概念的問題を扱う。マーサ・ヌスバウムによる概念分析を紹介したあと、いくつかの補足を行う。
続いて、2節では道徳的問題について論じる。
まず、性的モノ化の不正さを人間を単なる手段として扱うことから説明する、ヌスバウムの道具扱い説を取りあげる。
続いて、性的欲求はその対象を本性上モノ化するという、イマニュエル・カントの見解に依拠したラジャ・ハルワニの議論を紹介する。
最後に、性的モノ化は女性に従属的な社会的意味を押しつけるがために不正であると主張する、ティモ・ユッテンの社会的意味の押しつけ説を検討する。
1 性的モノ化の概念分析
1.1 ヌスバウムの分析
上で言及したように、性的モノ化の概念が注目されるようになったのは、キャサリン・マッキノン(MacKinnon 1996)やアンドレア・ドウォーキン(Dworkin 1989)といった第二派フェミニズムの論者によるポルノグラフィ批判の文脈においてであった。
他方、哲学・倫理学分野における性的モノ化の議論の端緒を開いたのは、ヌスバウムが1995年に発表した論文「モノ化」(Nussbaum 1995)である。
そこで、まずはヌスバウムの議論の紹介から始めることにしよう。
ある人をモノ化するとは、その人をモノとしてみなす・扱うことである。ある人を性的モノ化するとは、その人を性的なモノとしてみなす・扱うことである。
このように、「性的モノ化」は、「モノ化」に「性的」という形容詞による限定が付された言葉だと考えられる。
そこでヌスバウムは、まず「モノ化」の概念分析を行い、それを性的な事例に適用するという手順を踏む。
ヌスバウムの分析の中心的な洞察は、「モノ化」は実のところ複層的で捉えどころのない「集合的用語(cluster-term)」(Nussbaum 1995, p. 258)だというものである。
すなわち、彼女によれば、ある扱いが「モノ化」と呼ばれるとき、次の七つの方法がありうるのだという(Nussbaum 1995, p. 257)。
(1) 道具性(Instrumentality)
対象を自身の目的のための道具として扱う。(2) 自律の否定(Denial of autonomy)
対象を自律や自己決定〔能力〕を欠いたものとして扱う。(3) 不活性(Inertness)
対象を行為者性(agency)を欠いたものとして、あるいは活発性(activity)をも欠いたものとして扱う。(4) 代替可能性(Fungibility)
対象を(a)同じタイプの別のもの、あるいは(b)別のタイプのものと交換可能なものとして扱う。(5) 侵犯許容性(Violability)
対象を境界統合性(boundary-integrity)を欠いたものとして、破壊し、粉砕し、侵入してよいものとして扱う。(6) 所有性(Ownership)
対象を他者によって所有され、売買されうるものとして扱う。(7) 主観性の否定(Denial of subjectivity)
対象を主観的な経験や感情を考慮に入れる必要がないものとして扱う。
通常の場合、こうした扱いをモノに対して行うことは適切である。他方で、わたしたちがこれらの扱いを人間に行うとき、モノ化が生じる。ただし、ヌスバウムによれば、どのようなときにモノ化が生じるかの厳密な必要十分条件を規定することはできないという。わたしたちは、いくつかの場合では上の七つの要素の内一つが現れていればモノ化だと判断するけれども、大抵のモノ化の事例においては複数の要素が現れている。
ヌスバウムの分析は、「モノ化」の一般的な用法と日常的直観をよく捉えており、優れたものである。たとえば、カジュアルセックスをするとき、わたしたちはパートナーを性的満足のための道具として、そして同時に、同程度の性的な満足をもたらす限りで他の誰かと代替可能なものとして扱っていると言えるだろう。また、売買春は、人間の身体やセクシュアリティという、売買すべきでないものを売買しているのかもしれない。
1.2 更なる要素?
レイ・ラングトンは、モノ化に複数の要素が含まれているというヌスバウムの洞察を引き継ぎつつも、フェミニストによるポルノグラフィ批判や広告批判を考慮するならば、ヌスバウムのリストに次の三つの要素を追加すべきだと主張する(Langton 2009, pp. 228–229)。
(8) 身体への還元(Reduction to body)
対象をその身体あるいは身体の部分と同一視されるものとして扱う。(9) 外見への還元(Reduction to appearance)
対象をもっぱらどう見えるか、感官にどう現れるかという観点から扱う。(10) サイレンシング(Silencing)
対象を沈黙したものとして、話す能力を欠いたものとして扱う。
ラングトンによれば、(8)身体への還元と(9)外見への還元は、フェミニストの社会批判、とりわけポルノグラフィ批判において重要である。
また、(10)サイレンシングも、女性が沈黙させられることによって女性の隷属状態が構築されていると考えるフェミストにとっては重要であるという。
(10)サイレンシングについては議論の余地があるかもしれないが、ラングトンによるリストの補足は全体として適切なものだろう。
ポルノグラフィや性的な広告に伴うとされるモノ化は、ヌスバウムのリストの(1)道具性や(3)不活性、(4)代替可能性によっても捉えられないわけではないが、女性の人格が単なる身体に還元されること、あるいは女性の価値が(もっぱら男性にとっての)性的魅力や外見的魅力に還元されることに由来すると考える方がもっともらしいだろう。
ここまで見てきたように、「モノ化」の概念は非常に多様な内容を含んでいる。
モノ化と呼ばれうる行為や表現にこれだけ多様な事例が含まれるとするならば、事例によって不正さの程度は大きく異なると考えるべきだろう。
たとえば、単にある人を自己決定能力を欠いた存在としてみなすことは、たしかにモノ化ではあるが、それほど深刻な道徳的不正とは言えないかもしれない。
他方、ある人の意志や感情を無視して、自分の満足のために使用することは深刻な不正である。したがって、モノ化の道徳的分析においては、要素を切り分けた上で、どのモノ化の評価について論じているのかを明確にすることが有益である。
2 性的モノ化の道徳的分析
2.1 ヌスバウムの道徳的分析
前節で見たように、ヌスバウムは「モノ化」の概念が多様で複雑であることを示したのであった。それでは、彼女は性的モノ化の道徳的評価についてはどのように考えるのだろうか。
〔…〕
※WEB掲載にあたり、必要最低限の修正を加えました。
(フィルカル編集部)
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著者情報
鈴木英仁 Hidehito Suzuki 京都大学大学院文学研究科倫理学専修博士後期課程在学中。日本学術振興会特別研究員(DC)。専門はJ.S.ミル、セックスの哲学、公衆衛生倫理。論文に「J・S・ミル『論理学体系』における帰納の正当化と斉一性」(『哲学の門』第5号、2023年)、「COVID-19ワクチンパスポートの倫理的検討」(『生命倫理』Vol.33 No.1、2023年)。