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トロッコ問題の使いよう

「より多くのものを害さないための不可欠な手段として、より少ないものを害すること」。いわゆるトロッコ問題において懸案となる行為は以上のように規定できるだろう。トロッコ問題とは、この行為を為すべきか、為さざるべきか、という問いを巡って立てられた問題の総体を指す(私は、トロッコ問題という思考実験の発議者とされるフィリッパ・フットや、それを論じた倫理学説を一つも知らない。しかし、トロッコ問題という仮定そのものは周知のものであり、私もまた、共有財産になってしまった限りでのトロッコ問題に基づいて語ろうとするのである)。
上の規定について、三つ注記しておく。
トロッコ問題において、行為が、進路変更をするか、しないか、という二者択一に制約されていることは、多数者を害さないためには少数者を害することが「不可欠」であることを意味しているであろう。
また、二つの被害者グループには、それぞれ特定の人数が設定されることがあるが、この設定は必然的に思われないので、単に「より多くのもの」、「より少ないもの」としておく。
さらに、一般には、人がトロッコで轢かれるという想定であるから、死ぬという場合を考えるのが普通であろうが、それに限らない場合をも想定に含めるために、「害する」という表現をとった。
うるさいようだが、「この行為を為すべきか、為さざるべきか、という問いを巡って立てられた問題の総体」という表現についても、念の為、一言しておくと、「善悪」、「許される」、「道徳的」等の表現は、避けた。意味が曖昧になる恐れがあるからである。
それから、上に規定しておいた行為、ないしは、この行為をするかしないかという選択が迫られる状況において迫られる選択(簡便のために、「トロッコ問題的行為」、「トロッコ問題的状況」、「トロッコ問題的選択」とでも呼ぼうか)は、するか、しないか、という二者択一であるが、それについて考えるトロッコ問題そのものは、当然二者択一的なものではない。トロッコ問題は、すべきかすべきでないかを議論するだけでなく、「どうしてすべき/すべきでないと感じるのか」、「どういう前提を設ければ、いずれかに決定できるか」、「どちらにも決定できないとしたらそれは何故か」といった、トロッコ問題的選択にまつわるあらゆる問いを含めたものでなければならない。「問いを巡って立てられた問題の総体」などという、しち面倒臭い表現をした所以である。
以上の理由より、トロッコ問題とは、「より多くのものを害さないための不可欠な手段として、より少ないものを害することの是非を巡って立てられた問題の総体」であると規定する。

さて、これでようやく、長い、退屈な準備は終わった。実は、私はこれまで、トロッコ問題について考えるのが好きではなかった。それは、よく見聞きするトロッコ問題が、すべきか、すべきでないか、という二者択一ばかりに拘泥しているようであり、しかも、その結果生じる見かけとして、あたかも人々が、どうやって他人を犠牲にすることを正当化しようかと悪知恵を絞ってばかりいて、他人を犠牲にしなければならない状況自体を疑わず追認しているように見えたからである。
しかし、以上のように一般化した規定を見ると、これは、とても日常的で、とても重要な問題であることがわかる。
例を挙げよう。私は最近また、有名なダラボンの『ミスト』を観た。突然街に深い霧がかかって、大勢がスーパーマーケット(米国のスーパーはホームセンターのようにも見える)に避難する。霧の中には凶暴な化け物がいるが、それを信じないものが争いを起こすなど、閉じ込められた多くの人々の間には、疑いと不安が絶えず、死者が出て、時間が経つと、ますますパニックが起こる。その中に一人、狂信的なキリスト教徒がいて、預言者のように振る舞い、徐々に信者を増やしていく。狂信者は人々を扇動し、批判的な人々を攻撃させる。主人公たちは、そこから逃げようと試みたところ、妨害に遭い、争いの末狂信者を射殺して脱出に成功する(その際、射殺した男は、後退りをし、おもむろに拳銃を下ろして、せつなそうに仲間を見上げ、「仕方なかったんだ…。」と釈明する)。だいたいこんな話であるが、トロッコ問題に関連して、私はこの映画を思い出した。
狂信者を殺したのは、いわば正当防衛であり、そのために害されずに済んだ人々のうちには自分自身も入っているわけだが、そうした点を度外視すれば、狂信者一人の死によって、数人が害されずに済んだわけである。また、面白いことに、狂信者は主人公たちを妨害して信者を扇動する時に、主人公の、八歳の息子を「生贄にしろ」と言うのである。狂信者とその信者の生贄思想から、主人公たちを救ったのは、狂信者その人の犠牲であった、ということになる。
ただし、狂信者は自分の権勢を高めるために、無力な少年を犠牲にしようとしたのに対して、主人公たちは直接的な危害を避けるために、やむなく狂信者を犠牲にしたという違いはある。もっと単純に言えば、狂信者は犠牲に対して積極的であり、主人公たちはむしろ犠牲をできる限り、狂信者の死も含めて、避けたいと思っている。このことは、寛容を巡る問いを思い出させる。渡辺一夫の有名な評論の標題「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」の問いである。それになぞらえて言えば、「犠牲に反対する人は、犠牲をなくすために犠牲を求める人を犠牲にすべきか」ということだ。


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