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【歴史小説】ラブリンマン -真説 坂田金太郎- 1-嵐の海より-

男の足元へ勢いよく飛んできた肉塊の正体は、
血にまみれた人間の右腕だった。

次いで、
屠殺された獣を思わせる悲鳴が聞こえた。
それは、
男の目の前に転がっている右腕のかつての持ち主から発せられた悲鳴とみて間違いなかった。
しかしその悲鳴も、
吹きすさぶ強風によって切れ切れにしか聞こえなかった。

男は悲鳴の方を仰ぎ見た。
帆柱から垂れ下がっていたロープが腕に絡まり、
強風によって大きく帆柱が傾いだ時に、
ロープに腕をねじ切られて持っていかれたようだった。
傷からは間欠的に大量の血が噴き出ている。

男の体は数刻前からずっとがたがた震えている。
それが、
容赦なく肌を叩く雨に冷やされた体から温度が奪われていっているせいなのか、
この非現実的な状況がもたらす恐怖のせいなのかは男にはわからない。

(か、神よ……私はこの嵐の中で死ぬのか? こんな船の上で?)

考える暇もなく、
壁を思わせる巨大な波にあおられ船がひと際大きく揺さぶられた時、
帆柱が轟音を立てながら二つに折れた。
男は口の中で小さく悲鳴を上げた。
しかし自分の耳に届いた声は驚くほど大きい。
男はすぐに、
それが自分の口から発せされたものではないことに気づいた。

男は振り返った。
悲鳴の主は東洋人の僧だった。
帆柱の下敷きになっている。
頭蓋が割れ、黄色い脳が露出していた。
気まずげに微笑んだような表情のまま、
僧はこと切れていた。

船には様々な肌の色の人間が乗っていた。
彼らはそれぞれの国の言葉で口々に叫び声を上げていた。
雨と波しぶきでびしょ濡れになりながら、
遠くを指差している。
指差す方向を見た。
ほとんど真っ暗な中、
稲光が時折閃いて周囲を明るく照らした。
島のような影が見える。しかし、まだかなり遠い。
破裂音にも似た音が、
男の体の中心の方から聞こえた気がした。
次の瞬間、男は宙に浮いていた。
男は嵐の海に投げ出された。
他にも何人か投げ出されている。

ばきばきめりめり、と大きな音を立てて、
船の甲板の中心部分が山のようにせり上がって大破した。
大小様々な木材の破片が周囲に飛び散った。
聞こえてくるのは猛烈な風の音。
波の砕ける音。そして、悲鳴。怒号。
何度も稲妻が光る。
光によって、島の方向がわかった。

(死にたくない、死にたくない。死ぬのは嫌だ、こんなところで……)

男は持てるすべての力を使って、
ひたすら泳ぎ、もがいた。
その間も、冷たい雨と風は男を打ち続ける。



目に感じる激しい痛みの正体は、眩しさだった。
猛烈な眩しさは感じるものの、
その余りの痛みのせいで、
それが眩しさだと認識するのに時間がかかったのだ。
徐々に、体に感覚が戻ってくる。
そのせいか、
脳に強烈に訴えかけていた目の痛みが幾分おさまる。

(手に当たっているこの妙な感触は、一体なんだ?)

ぎゅっと握ってみた。
それがシーツでないことは明らかだった。
握りしめると手の中でそれは微かな音を立てて軋み、
はらはらと零れ落ちてゆく感覚があった。

(これは、砂?)

それまでじわじわと体全体の皮膚で感じていた熱のような塊りが、
悪意を孕んで一気に膨張した。
熱い。焼けるようだ。
私は今、天井から全身を炎であぶられている。

耐え難いほどの痛みに見悶え、
足を踏みしめた刹那、
ほぼ同質の次なる痛みが両脚を駆け巡った。
男は長々と悲鳴を上げ続けた。
脚が曲げられない。動かない。
激烈な痛みだけに支配されている。

(死ぬ。痛みで死んでしまう。助けて母さん。ああ、神よ!)

男は聖書の一文を想った。
しかし祈りに手を組むこともできない。
両腕は、
太い鋼鉄製の鎖が幾重にも巻かれているかのように重かった。
苦しさに耐えかねて、また強く目をつぶってしまっている。
呼吸を整え、横臥の姿勢をとったまま、
男はようよう目を開いた。

(……浜だ)

眼前に飛び込んできたのは、
一面に広がった真っ白な砂浜だった。
砂はあちこちに小山を形成し、
陽の光をいたずらに乱反射させている。

その先には海があった。
波は落ち着いている。炎天下だった。
全身を炎であぶられている感覚は、
体についた海水が蒸発し、
陽に焼けた皮膚に濃度を増した塩分が沁みているせいだったようだ。

男は全裸だった。
身に着けていたものは、
服も靴もすべて失われていた。
決死の覚悟で嵐の海を泳ぐ際に、
荒れる波に絡め取られていったのだろう。

海は蒼く美しかった。
見渡す限り穏やかな水平線が広がっている。
あの猛烈な嵐が嘘のようだ。
あれから何日経ったのか、
自分がどれくらいの時間気を失っていたのかを計るすべはどこにもなかった。
わからない。自分達はいつ神の怒りに触れたのだろう。

岩礁などは見当たらない。
視界に入るのは、空の青、海の蒼。
眩しさに少し目が慣れてくると、
自分の尻の下にある砂はそれほど白すぎないことがわかった。
ぐるりと左右を見まわした。
右の首の後ろが痛かったが、背中ほどではない。
右も左も、
ずっと同じ色の砂浜が絶望的に広がっていた。
砂浜以外、発見できるものはない。

体が水を欲していた。
口腔内がねばつき、つばを呑みこむことも困難だった。

(まずは砂丘を越えることだ)

男は苦労しいしい、
なんとか四つん這いの体勢になった。
この姿勢が限界だった。
しかしのどの渇きも、
もはや我慢しがたい域にまで来ている。

手を焼けた砂に突き刺し、
体重を前に移動させる。
片方の膝を体の方に滑り寄せる。
もう片方の手を砂に突き刺す。体重移動。
手を砂に突き刺す。ひとつ。ふたつ。みっつ。
これが精一杯だった。
なだらかな勾配を登り切り、
砂丘に到達するだけで大変な時間がかかった。

(まさか)

体が直射日光に焼かれ続けているにもかかわらず、
男は自分の想像に身震いした。

(私一人なのか?)

強く目を瞑り、また大きく見開いた。
ひとつ、ふたつ、みっつ。ゆっくり手と。

(ありえない。船にはあんなに人数がいたんだ。あんなに、たくさんの人が、死……)

男は、また前に進め始めた。

波の音は少しずつ、遠くなっていった。
海鳥の声がやけに空々しく聞こえる。
海鳥に、
ほんの微かに心の中に湧き起りつつある絶望を絶対に悟らせないよう、
男は意識を閉じようと働きかけた。
〈続く〉



 

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