【歴史小説】ラブリンマン -真説 坂田金太郎- 7-金太と佐吉-その①
止め矢は金太にはちょっと早すぎる。
あの子はずば抜けて体が強く、
普通では考えつかないような大胆なことをしたり思いついたりするけれど、止め矢はそういうもんじゃない。
確実に獲物の急所を狙い、
ぎりぎりまで獲物に近寄って、
確実に心臓か首か、額を射抜かないと駄目だ。
だからこれは観童丸の受け持ちだ。
観童丸は森の地形を完全に記憶してる。
そして獣の動きを理屈でわかってるから、
おのずと自分と金太が駆ける時も場所もわかる。
それをわかった上で観童丸が今いるべき所が、
つまり止め矢を獣に放つべき所なんだ。
わかった上で観童丸は動く。
とはいえ、頭に血が上った金太は時折、
観童丸も知らない動きをする。
「駄目だ! 金太、そっちじゃない‼」
くそ。勢いがついた金太は、まるで猿だ。
森を走る、という感じじゃない。
木々を蹴り、枝や蔦を手で渡る。
森の全部を使って、走る獣の真上を飛ぶ。
そしてそういう状態に陥った時の金太は、
俺の言うことなんてまるで聞きゃしない。
観童丸は舌打ちした。
金太より先に、獣が息を切らせはじめた。
大きな猪だ。
金太の追い方のせいか、
猪は観童丸の思惑とは違う方向へ走りはじめてる。
(あの繁みを抜けたらすぐに崖だ)
谷に落としたら、拾いに行くのも一苦労だ。
観童丸は必死で駆けた。
唐突に森を抜けた。
崖まではそう距離もない。
肩で息をしながら、観童丸は前に立つ金太を見やった。
金太もまた息を切らせながら、
崖を背に猪の首を片手でつかんでぶら下げてた。
指は猪の首根っこに深く食い込んでる。
猪の胴回りは、
大人の両手くらいの長さがあったみたいだ。
たった十四歳の男が片手で持てる代物じゃないことは間違いない。
その腕には汗がねめって光り、
筋肉が今にも弾けそうなくらいぱんぱんに張り詰めて、
血管が太ったみみずみたいに何本も走ってた。
筋という筋、肉という肉の全部に、
山の力と森の精気が漲ってるみたいだった。
金太のもう片方の手には小刀が握られてた。
小刀の刃から金太の肘辺りまでにかけ、
血で真っ赤に染まってる。
刹那、観童丸は金太の血かと思ったけれど、
目を凝らすと猪の首が真一文字にざっくりと切り裂かれるのが見えた。
血はなおもぼたぼた落ち続けてる。
金太の目は、上弦の月みたいな形に尖ってた。
「金太」
声をかける観童丸を、
金太は矢みたいな鋭さでにらみ続ける。
身長はもう、観童丸より頭一つぶん高い。
「金太。終わったぞ。よく足で追いつめたな」
昂ってる金太を刺激しないように、
観童丸は抑えた声で話しかけた。
そうしてゆっくり近づき、
金太の肩をぽん、と叩く。
金太は目を尖らせたまま、
小刻みに頷いて観童丸に応じた。
見ると、
いま金太と観童丸が立ってる所から、
少しだけ崖側に行った場所に大きな血だまりができてる。
(金太は、あそこでこいつにとどめをさしたんだ)
ぞっとした。
もう数歩で崖だ。
あと、ほんの一呼吸ぶん走っていたら谷底へ真っ逆さまの場所に、
血だまりはできてた。
全力で駆けた金太は、
すんでのところで猪に追いすがり、
崖のふちでもがき暴れる猪を力づくで取り押さえて、
首根っこに小刀を突き刺したんだ。
おそらくは金太のこと、
猪を捉える寸前まで力を抑えるようなことはしなかったろう。
(……まったくこいつは。いくら強くなるって誓ったからって、たった数年でこんなに……)
観童丸はため息をつき、金太を見た。
金太はまだ肩で息をしながら、
尖った目で森のどこかに視線をやっていたよ。
金太の目は尖っていながらも、
どこか悲しげだったみたいだ。
金太が森の中にいる何を探してるのか、
観童丸にはわかってた。
猪の肉は久しぶりだった。
岩屋に運び込まれた時には、
観童丸によって丁寧に血抜きされてた。
血やはらわたを使った料理もできるんだけど、
肉だけで三人がしばらく食べてくには十分の量だったから、
それらはバラバラにして川や森に放ち、
魚と獣に食わせてやったよ。
まずは首から腹にかけて皮を裂き、
これは流れる水に浸しておく。
あとで鞣して、着るものや敷布を作るためだね。
そして部分ごとに肉を切り分けてく。
例えば背中だったり、胸だったり、
腿、肩、尻といった感じで。
切り分けたら、次に薄く削ぐように切る。
干し肉を作るためだ。
漬け汁に漬けたあとで天日干しするから、
これはもちろん干して乾くことを考えた厚みで切ってく必要がある。
それらの一切を終えたのちに、
余ったくず肉が当座の食べる分だ。
余ったくず肉とはいっても、
わたし達三人が三日は食べられるくらいの量はあるんだよ。
わたしと観童丸が包丁を振るってる時、
金太はちょっと離れたとこで皮を鞣す下準備をしてた。
「観童」
金太に聞こえないよう、小声で話しかけた。
「金太は最近、たたら場に行ってるのかい」
観童丸はゆっくりと首を振る。
「そうか」
それだけ言って、わたし達はまた自分の作業に戻った。
金太は、
鉄を融かして沸かせるたたら場に並々ならぬ興味を持っていたんだ。
金太は豪快なところがありながらも、
細々とした物を作る仕事だって好きだった。
例えばいま金太がやっている皮を鞣す作業も、
一度教えただけですぐにコツをつかんでしまって、
二度目からはもうわたしより上手に全部をやってのけた。
鞣した革を縫い合わせて袖なしの上着や短い袴を作ったりもしてたけど、
これに至っては教えてもいないよ。
何かそういった、
物を作る勘のようなもんがあるんだろうね。
そんな金太だから、
ごろごろした鉄石とかさらさらの砂鉄からあんなに綺麗で純粋な鉄を生んでくたたら場ってのは、
さぞかし魅力的な所だったと思うよ。
鉄を作るなんて、
素人が見様見真似でかじれることじゃないからね。
でも、
そんな人がたくさんいる所に金太は行っちゃいけないんだ。
あの子が傷つくだけだからさ。
赤みがかった肌の色は、
成長するにつれだんだん薄くなってったけど、
それでも里にいる人間や、
わたしのそれとは明らかに違ってた。
そして髪の色は、
いまだその名前が示す通りの色だ。
とてもじゃないが、
普通の人間がすんなりと受け入れられるくらいのもんじゃなかった。
十四歳になった金太は、
もう悪童に石を投げられるようなことはなかった。
そりゃそうだ、
そんなことをして金太の怒りに火をつけてしまっては何をされるかわからないからね。
悪童にそう思わせてしまうくらい、
金太の様相は幼い頃と比べ変わってた。
それでも、
石を投げられるくらいならまだましだった。
金太が最も堪えたのは、
女が金太の姿を見るや露骨に震え上がって逃げだしたり、
子供がわっと泣きだしたりすることだ。
そんな出来事のひとつひとつは、
金太の心に深い傷痕を残していった。
わたしは金太を見た。
その大きな背中を丸めて、
黙々と毛皮を洗い、
裏に張り付いた油を小刀で削ぐ仕事に没頭していた。
猪の肉は、
手作りの味噌で山菜や芋と一緒に煮る。
肉と油の甘さと味噌のしょっぱさが相まって、
それはもう応えられない。
村はもちろん、
都の人間だってこんなおいしいもんは食べていないよ。
肉が新しいうちは、
瓦とか陶板の上で焼いて塩を振るだけでもすごく美味しいんだ。
これはもう、
山で暮らしてるからこそ食べられるもんだ。
囲炉裏の火で鍋がふつふつ煮たってきたら、
もう観童丸と金太は居ても立ってもいられない。
おあずけが解かれるや、
わっと鍋の中身を自分達の椀に注いで箸でかきこみはじめた。
しばらくがつがつと食べ進めたのち、
急に観童丸が椀から顔を上げて言った。
「金太。狩りが終わってすぐ、おまえ森を見てたろ」
金太は無言で椀の中身をつついてる。
「……環雷を探してたのか?」
金太の箸がぴたりと止まった。
そしてすぐまた動きだした。
わたしも箸を止めて、金太に尋ねる。
「金太。……最後に環雷を見たのは、いつだい?」
「……もうずいぶん前だよ、おかあ」
金太は椀の汁をすすりながら言った。
「ずいぶん前って、どれくらい? もう何年も前だろ」
「そんなのわからねえよ。ずいぶんはずいぶんさ」
金太は口をへの字に曲げ、囲炉裏から離れた。
その夜は、
それからもう何度尋ねようが、
金太は環雷のことを話そうとしなかった。
〈続く〉