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【歴史小説】ラブリンマン -真説 坂田金太郎- 15-放浪者-その②

気づくと、空が白んでいた。

男は戸口の前でうつ伏せになっていた。
泣き疲れて、
そのまま外で眠ってしまっていたのだった。

手足が傷だらけになっている。
辺りかまわず殴りつけたせいだ。
あちこちから血がにじんでいた。
体は自分の吐しゃ物にまみれて、
ひどい臭いを放っていた。


男はそのまま川へ降りた。
あの死体を見ないよう少し上流までゆき、
服のまま水浴びして体中を洗う。
水は冷たく、心地よかった。
体中の傷から熱を奪ってくれた。
男は両手で水をすくい、
心ゆくまでのどを潤した。
空気の澄んだ朝の森は美しかった。

絶叫したせいか、
冷たい水を飲んでもまだのどが痛んだ。
男は思い立ち、小屋へ戻って、
まだ絞ったばかりの桑のジュースを飲んだ。
気温のせいか、
少しだけ発酵が進んでいた。
ぴりっとした刺激が舌に残る。
しかし、しみじみ甘い。
体が、心が求めていた味だった。
じんわりと染み入るような甘さを味わいながら、
男は声を殺して泣いた。
 


ある日、
野草を摘みに行った帰り、
夕方のことだった。
小屋の中に人がいた。
小柄な青年だ。
木戸は開きっぱなしで、
小屋の中が丸見えになっている。
青年は、
小屋の壁に掛けられた道具類を物珍しそうに見ていた。
物音に気づき、振り返る。
青年の表情は見る間に凍り付いた。
明らかに恐怖していた。

「怖がらないで!」

男は勢いよく、
しかし努めて優しく言った。
言葉が通じるはずがないことは十分わかっていた。
しかし話すしかない。
男は無理やり笑顔を作り、
両手のひらを青年に向けた。

「何もしません! 危害は加えません。大丈夫、大丈夫です」

青年は男に比べ、
ずいぶん背が低かった。
だから怯えさせないよう、
男は殊更に背中を丸めた。
初めての、現地人との接触だった。
改めて男は、
自分や自分が知っている人種と彼らとの見た目の隔たりを感じた。

まず目がとても小さい。
今は恐怖で大きく見開かれているものの、
男のそれとは比べるべくもなかった。
そして額が狭く、鼻が低く、
顔が全体的に丸くて平たいと感じた。
肌の色は、
男にはやはり黄みがかって見えた。
髪はまっすぐで黒い。
それらすべてが、
男にはとても特徴的に感ぜられた。

(私は国でも背が高く、体も大きい方だった。それにしてもだ。これは本当に成人男性なのか? それとも彼は少年なのか?)

「××××? ××! ×××××、××××××××。××××××××!」

青年の声は震えていた。
押し殺すように出している。
顔は汗みずくで、
小さな目には涙が光っていた。
そしてもちろん、
言葉は何一つ理解できない。
男は焦った。

「お願いだから、そんなに怖がらないで。何もしません。私はとても困っているんです。どうか助けてほしいんです」

男はさらに腰をかがめ、
青年に一歩踏み出した。
男が進んだ分だけ、
青年は小屋の中へ後じさる。
すぐに後ろの壁に背中がぶつかり、
それより下がれなくなった。
青年はそのまま地面にぺたりと座り込む。
さらに後じさろうとした青年の膝が、
桑のジュースの入った木樽に当たった。

青年は横目で木樽の中を見た。
中にはどろどろの、
血のように赤黒い液体が満たされている。
青年の呼吸はさらに乱れた。

「……違う! それはジュースだ。木の実を潰したジュースだよ。ほら、いい香りがするだろう? 採った実で果実酒を造って……」

男は思わず青年に詰め寄った。
ひいいいいっ、と悲鳴を上げ、
男の脇を転がるようにして抜けた。
そして青年は、
後ろも振り返らずに走り去った。
まだ何か叫んでいるようだったが、
男にはただの喚き声に聞こえた。

やはりだ。
目の当たりにしたら、
あのような反応を取られるだろうという予想は当たった。

大陸からこの国への渡海はもう何度も行われていた。
唐からの使者は何十人と、
様々な理由でこの地を踏んでいたはずだ。
唐の港はそれこそ人種のるつぼ、
中には男と似たような風貌の人種も多くいたに違いない。
しかし、
ここは唐でもなければ港でもない。
山で囲まれたこの国では、山を一つ、
川を一本隔てるともう異国も同然である。

男のような風貌の人間など見たこともない者が大半であることは容易に想像できた。
だとしたら、
無知な農民にしてみれば、
自分の見た目は怪物そのものだ。

(この小屋にいないほうが安全だ)

いつかそうなるだろうと踏んでいた男は、
あっさりと小屋に見切りをつけた。
そして食料と水と、
身の回りのものだけを簡単にまとめて背負子しょいこにくくりつけた。
帯に小刀を差し、
水筒を持ち、
もちろん果実酒も忘れずにもう一つの竹筒に入れた。

そして夜明けを待たずに小屋を後にした。
〈続く〉



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