【歴史小説】ラブリンマン -真説 坂田金太郎- 19-シュタインと山の民-その①
シュタインはイーヴァとともに森を駆けていた。
雄の鹿を追っているのだ。
シュタインの前にはイーヴァの背中があり、さ
らにその前には他の山民が三人いた。
いや、三人いたはずだった。
しかしもう遥か先を駆けていて、
その姿はほぼ見えなくなってしまっていた。
少し前を駆けているイーヴァも、
シュタインが不案内な森の中で狩手衆を見失うことのないよう、
気を使って速度を落としている。
それでもシュタインは、
ただ後をついてゆくだけで精一杯だった。
山民の狩手衆が本気で獣を追っている時の迅さや動きは、
まさに獣のそれであった。
山野を駆ける時は鹿のように素迅く、
木々を縫って跳ぶ時は猿のように軽やかに、
という言葉は伊達ではない。
岩場も切り立った崖も密生した木々の間も、
まるで平坦な地面のように駆けた。
凹凸や地面の柔さ、
固さなどないも同然だった。
(まるで水が流れてるみたいだ)
シュタインの目にはそんなふうに映った。
イーヴァも本気を出せばかなり迅く駆けられるようだった。
たとえ外から来た人間であっても、
彼らと何年も行動をともにすれば彼らのように強く、
逞しくなることをイーヴァは身をもって示していた。
「ごおおおお。ぐえっ。げっ」
「がらっ。げっごわっ」
「ほうっ。ほうっ」
狩手衆は時折、
そんな奇声を発していた。
山言葉だ。
これにはもちろんきちんとした意味がある。
狩りでよく取られる行動を記号化し、
それらを手話と組み合わせることで、
次にとるべき動きを狩手衆全員同時に目と耳で伝えあっているのだ。
現に、
発せられた山言葉をきっかけに狩手衆は一斉に散ったり二、三人に分かれたり、
と組織的な動きを展開していた。
イーヴァの姿もついに見えなくなった。
シュタインの息はもうとっくに上がっている。
ついに足がもつれ、
その場にばったりと倒れ伏した。
腰から下全部ががくがくと震える。
平地を全速力で駆けるのとは、
筋肉の消耗の度合いがまったく違った。
荒く息をついていると、
遠くで猪の断末魔の叫びが聞こえた。
シュタインはよろよろと起き上がり、
声が聞こえる方向へ向かった。
とめどなく流れる汗を拭いながらしばらく歩くと、
果たして狩手衆は猪を仕留めていた。
止め矢は、
見事に首の真後ろを射抜いている。
猪ははや、
身の丈ほどの棒二本に前足と後ろ足をくくりつけられていた。
隠れ里へ運ぶための準備だ。
「……血は抜かないのか」
猪の足を縛る手伝いをしていたイーヴァに、
シュタインが訊ねた。
「ここでは抜かない。血も料理に使うんだ」
「私達の国の料理と似ているな」
見回すと、
息を切らしている山民は一人もいなかった。
シュタインの息はいまだ整っていない。
狩手頭の白奴火が、
シュタインに向けて手話を繰った。
『おまえはもう少し体力をつけなければならない』
それに対し、シュタインも手話で応じる。
『まったくだ。ついて行けなくてすまない』
『いや。まだ仕方ないが これからは体力をつけ せめて皆の足にはついてきてほしい。狩りをするのは無理だとして。狩りは男の仕事だ』
『努力する。一日も早く ついていけるようにするよ』
『わかってくれたらいい。この短期間で 手話をかなり覚えただけで大したものだ』
白奴火はわずかに口の端をゆがめた。
微笑んでいるらしい。
シュタインはほっとした。
猪を運ぶ用意ができた。
皆連れだって、
隠れ里へ向かって歩き始めた。
「確かに、おまえは手話の上達が速いな。もう会話ができてしまっている」
イーヴァが、まるで自分のことのように嬉しそうに言った。
「勉強は嫌いじゃない。それに、手話は実に合理的にできているから覚えやすいんだ」
例えば、
『ありがとう』という感謝の気持ちを表す手話は片手で拝む動きだが、
その拝む動きに目頭を押さえる動きをもう一方の手で加えると『すまない』という謝罪の気持ちに変わる。
同じように頭を下げる動きでも、
何かもう一つの動きを添えるだけで逆の意味に変わるのだ。
そして目頭を押さえるという動きは言うまでもなく、
涙をこらえている様子を表現している。
「そうだろ。山民の習慣や行動は、すべて合理的に説明がつくものばかりなんだ」
「ああ。ゆきも熱心に教えてくれるから、なお覚えやすいんだ。あの子はすごく頭がいい。教えるのが上手なんだよ」
「ほう」
イーヴァの目がきら、と光った。
「愛の力ってわけか」
シュタインはため息をついた。
「茶化すなって」
「でも、あの子と一日も早く意思の疎通を図りたいから手話を必死で覚えたんだろ?」
「まあそれは……否定できないけどさ」
シュタインは隠れ里へ来た日、
つまり初めてゆきと接した時。
耳が不自由であることを知らずに片言のお礼を口にしてしまった。
イーヴァに気にするなと言われたものの、
どうにも気持ちがすっきりせず、
翌朝ゆきが一人で住んでいる家に会いに行ったのだ。
そして突然の訪問に驚いているゆきに向かって、
イーヴァから即席で習ったお詫びの手話を繰った。
『昨日はごめんなさい。話しかけてしまった。耳のこと 知らなかったから』
これで伝わっているのか不安だった。
とにかく、
シュタインはぺこぺこと頭を下げて気持ちを伝えようとした。
ゆきはしばらく口を一文字に引き結んでシュタインを見ていたが、
やがてにっこりと笑い、
ゆっくりと手話を繰った。
しかしシュタインにはその手話の意味がまったくわからなかったので、
ゆきに頼んで三回ほど同じ動きをしてもらった。
そしてその動きを模倣し、
イーヴァにして見せた。
イーヴァは頷き、
その意味をシュタインに教えた。
「大丈夫です。声は聞こえないけれどあなたの心は感じていました、だよ」
それを聞いて、
シュタインの手話の習得には俄然熱が入った。
そして正直に、
はやく手話を覚えて一族の皆と話がしたい、
もちろんあなたとも話したい。
だから手話を教えてくれまいか、
とゆきに伝えた。
するとゆきは、
シュタインの申し出に快く応じた。
もともと、
隠れ里に来たばかりのシュタインに男衆の狩りは務まるはずもない。
頼みの綱のイーヴァも、
夜はシュタインと一緒に食事しながら一日の出来事についてあれこれ話すものの、
日中は狩りに出たり、
里の色々な顔役らしき人物と会ったり、
と何かと忙しそうにしていた。
だから自然、
女衆の雑多な仕事を手伝う成り行きとなり、
いつの間にやらゆきはシュタインの教育係、
といった位置に収まっていた。
女衆の仕事とは、
例えば男衆が狩ってきた獣の皮を剥いで鞣したり、
肉を里全体に回すための準備をしたり、
また肉を保存食とするための加工を施したり、
森に入って栗や木の実、
山菜などを集めたり……といったものだ。
つまりは狩り以外の、
年間通じて食料を安定供給するための作業がその大半を占める。
これらの作業手順を教わるのと並行して、
シュタインはゆきより手話を学んだ。
というよりも、
作業手順を覚えるためには手話を身に着ける以外なかったのだ。
しかし、
こと精肉に関わる作業では、
元々肉を商っていたシュタインにも一日の長があった。
シュタインの母国と比べると、
この国の肉を料理する歴史は浅い。
例えば、
シュタインの大好物である腸詰などはまだ存在すら知られていなかった。
そこでシュタインは屑肉や脂肪を粗く叩き、
そこに塩と、
舌の記憶を頼りに山から採れる葉山葵や山椒といった香辛料を色々混ぜ合わせ、
丁寧に水洗いした猪の腸にたっぷりと詰めた。
そして桜の木屑で燻煙して、
見事な腸詰を作り上げたのだ。
母国の物とは味が違うものの、
これはこれでなかなかの逸品だった。
ゆきを始めとした里の女達もおっかなびっくり味見をし、
体験したことのない美味に驚嘆した。
シュタインにとってみれば涙が出るほど懐かしい味だった。
夢にまで見た味だ。
そして保存も利くということで、
腸詰は里の人間にもたいへん重宝がられた。
そうして仕事をしてゆく中、
シュタインは手話を身に着け、
それをきっかけとして男衆とも積極的にコミュニケーションをとった。
特に、
狩手頭を務めることが多くあり、
若衆でも常に頭目として扱われている白奴火からは組手での戦い方を習った。
狩りに秀でているだけではなく、
山民の男はあまねく徒手空拳にも優れていたのだ。
白奴火はシュタインより四つ年上だった。
猛禽類のような精悍な顔立ちで、
滅多に笑うということをしない。
自分にも周囲にも常に厳しく、
ことに合理的な考えや行動を好んだ。
色は浅黒く、
よく引き締まった体をしている。
シュタインよりも二回りほど小さいので、
初めて土俵の上で白奴火と組み合った時、
その重さに驚いた。
腕や足の太さを見る限り、
明らかに力は自分の方がありそうなのに、
シュタインが押しても引いても白奴火はびくともしないのである。
これが森の木々の狭間を跳ぶように駆けていた体とは到底信じられなかった。
投げ飛ばそうと力んだシュタインの方が、
あっという間に地面に投げ伏せられていた。
したたかに打った腰を撫でさすりながら、シュタインは手話を繰った。
『わけがわからない』
白奴火がシュタインの手を取って助け起こした。
そして手話で答える。
『イーヴァもそうだった。体の大きい者は すぐに力で 持ち上げようとする。それは違う。体術とは つまり人体の理を解することだ』
『人体の理?』
『相手の力を利用する 力の流れを読む 流れに沿って攻撃する ということだ。人体の関節の動きや その動きのためにどこの筋肉を おもに使うかを覚えるのだ。つまり』
白奴火の手話は速く、
シュタインにはまだ理解が追い付かない。
手話で伝えるのがまどろっこしくなったのか、
白奴火はシュタインの手を取った。
手の甲が上を向いている時に手首を掴まれても暴れることはできるが、
手の甲が横を向いている時、
つまり親指が上を向いている状態で手首を掴まれ、
ほんの少し捻られると電撃のような痛みが走った。
あまりの痛さにそのまま立っていることができず、
シュタインは簡単にひざまずいてしまった。
『こういうことだ。シュタインの力を利用しているだけだ。人体の理を解しているだけだ』
『これは魔法か?』
『魔法ではない。古布志宇知という名の武術だ』
『つまり 格闘技のことか』
神聖ローマ帝国にも格闘技はあった。
だが白奴火は首を振った。
『少し違う。戦うためのものじゃない。身を守るための術だ』
その二つの明確な違いが、
シュタインにはよく理解できない。
『それは結局 同じことなのではないか?』
『違う。古布志宇知には 自分から先に攻撃するための技が ほとんどない。攻撃を受け流す技や 攻撃から反撃に転じるための技が多い。攻撃をする必要がないからだ。山民の技は相手を傷つけるための技ではないのだ。 例えば』
また自分の手話が速くなってきたことにはっと気づき、
白奴火はシュタインの手をぐい、
と引っ張って技をかけた。
それからシュタインは都合八回ほど投げ飛ばされ、
転がされ、
土俵の上で砂まみれになった。
白奴火が九回目に挑もうとした時、
シュタインにはもう手話を繰る元気さえも残っていなかった。
何とか手のひらを白奴火に見せて、
もうかんべんしてくれという意志を示した。
白奴火はまだ教えたそうな素振りを見せていたが、
首を傾げつつしぶしぶ、
といった様子で頷き、
砂まみれのシュタインを助け起こした。
〈続く〉