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【歴史小説】ラブリンマン -真説 坂田金太郎- 15-放浪者-その③
考えたくはないが、
村人がもし追ってきたら。
集団で山狩りを始めたら。
自分は山歩きに慣れていないうえ、
重い荷物を持っている。
きっと追いつかれる。
そしたらもう、
何をされるかわからない。
男は青年の形相を思い出し、
身震いした。
(何としても逃げなくては。距離をかせがなくては)
男は急ぎ足で、
それでもへばってしまって動けなくなってはいけないので、
一定の速度を守りながら山道を急いだ。
とりあえずは、
青年が逃げ去ったのとは逆の方向へ。
(でも……それでどうなる?)
そうだ。
逃げおおせて、それでどうなる?
誰も追って来ない所まで逃れたとして、
その先は一体どうしようというのだ。
結局はこの地で、
目立たぬよう、
人里から離れてひっそりと息を殺して生きてゆかねばならないのか。
(……とにかく、海を目指してみよう)
どこかの海岸へさえ出れば、
そこから海岸線沿いに歩けば港町が見つかるかもしれない、
と男は思った。
難破した時も、
唐を出港してからかなりの日数を航海したのちに嵐に遭ったのだ。
だとしたら、
そもそもあの船が目指していた港からそう遠くは離れていない所に自分は流れ着いているはずだ。
そう信じたい。
男は歩いた。
自分を励まして一日中歩き続け、
夜になると火もおこさず、
闇に紛れて干し肉を齧り、
水を飲み、
少しだけ果実酒を呑んで気持ちを癒してから寝た。
そのまま二日間、
男は北東に向かって歩き続けた。
その日も真っ暗になるまで男は歩いた。
今日はもうそろそろ限界だ、
と男が思った時。
月明かりが照らし出している道、
と呼べるほどでもない山道の先に、
人が倒れているのを見つけてぎょっとした。
男は慌てて木の陰に身を隠す。
そしてそろそろと顔だけ出して、
倒れている者を伺い見た。
体格からして女のようだった。
うつ伏せに倒れている肩が上下に揺れている。
荒い息をしていた。
病気に罹っているのかもしれない。
そう思い、男はそっと近づいた。
やはり小刻みに、
苦しそうに息をしている。
気を失っているようだった。
そばに風呂敷包みと背負子がある。
様相からして旅の者かもしれない。
旅の途中で病気になり、
もう動けなくなったか。
どっちにしても捨ててはおけない。
そして、
気を失っているなら幸いだ。
自分の姿を見て悲鳴を上げられる恐れもない。
男は女のそばにしゃがみ込み、
二、三度肩をゆすった。
それでも反応がなかったので、
思い切って肩を掴んで上を向かせた。
苦しそうに顔をゆがめる女を見て、
男は目を瞠った。
(……知っているぞ、この症状は確か……)
女の顔は赤く腫れ、
ところどころ醜く崩れていた。
片目は布で完全にふさがれ、
黄色い膿がにじんでいる。
赤くない部分の表皮は、
木の肌目のように小さな瘤が無数にできていた。
(思い出した。これは白癩とかいう病気だ)
唐の港でも、
男は同じ症状の病人を見ていた。
だがこの病気は、
確か発熱することはないと聞き及んでいた。
ならばこの女が苦しそうなのは、また別の病気か?
「……おい、大丈夫か? 私の声が聞こえるか?」
ひどい汗だ。
体中がじっとりと濡れている。
とにかく水を飲ませなければ。
男は女の肩を抱いて少しだけ起こし、
もう一度揺すった。
「しっかりしろ。目を覚ますんだ。目を覚まして水を飲め」
通じなくても仕方がない。
男は自分の国の言葉で話しかけ続けた。
と、呼吸の音が変わり、
女がうっすらと目を開いた。
男はほっとする。
「よかった、意識を取り戻したな。……ほら、飲んで」
男は蓋を外した水筒を女の口につけた。
そしてほんの少し傾ける。
女は朦朧としつつもそれが水だとわかり、
のどを鳴らして飲んだ。
瞬く間に水筒は空になった。
ほう、っと女は息をつく。
「……×××××。……」
うつむいたまま女が何か言った。
男は微笑んだ。
礼を言われたのかもしれない、と思った。
女が顔を上げた。
月明かりが、
女の瘤だらけの崩れた顔に陰影を与えた。
それはこの上もなく醜かった。
が、月明かりによって陰影が濃くなったのは女の顔だけではなかった。
男の姿を見た女の顔が、
みるみる恐怖でゆがんだ。
「……××? ……××! ×××××、×××××!」
女はふらふらと立ち上がると、
そばにあった自分の荷物にも気づかず、
よろけながら駆け去っていった。
月は明るかったものの、
女の姿は数十メートルも離れるともう闇に溶けて見えなくなった。
男はしばし、呆然としていた。
そして女の気配がまったくなくなり、
また森が静かになると、
思わず笑いだした。
男はひとしきり笑った。
笑うのをやめると、
涙がこぼれてしまいそうだった。
だから笑い続けるしかなかった。
〈続く〉