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【歴史小説】ラブリンマン -真説 坂田金太郎- 17-イーヴァと山の民-その①

もう一歩も進めなかった。

農民らしき一団から逃げている時に投げつけられた大人の握りこぶしほどの大きさの石は、
男がちょうど振り向いた瞬間、
左目の上の額に命中した。
そこから血が流れ出た。

しかし足を止めるわけにはいかなかった。
死にもの狂いで走り続け、
いつしか追手はいなくなった。
捕まえるのが目的ではなく、
この周辺から追い払いたかっただけなのだ。

ずきずきと頭が痛む。
血はまだ出ている。
そして大きな瘤もできていた。
男は腰に下げていた水筒から水を飲んだ。
もう水も残り少ない。
果実酒もとっくに飲み終えてしまっていた。

(川を探さないと……。水を補充しなければ。そして傷を洗って冷やしたい)

しかし、
川はもう随分見ていなかった。
このままでは日干しになってしまう。

陽が暮れかかっている。
とにかく一旦休もう。
そう決めて背負子を降ろし、
男はため息をついた。
大事な荷物が、
ほとんど無くなってしまっている。

(……石を投げつけられた時か……)

逃げている最中にたくさんの石を投げられた。
そのうちの一つが背負子に当たり、
結わえていた紐が解けてしまったのだろう。
捕まるものかと必死で逃げていて、
荷物が軽くなっていたのにも気づけなかった。
命の綱の干し肉も無くなっている。

男は背負子を枕に、
そのままずるずると横になった。
額の痛みはいよいよひどくなってきた。
冷汗が止まらない。
体は熱いはずなのに、
身震いがした。
ほとんど何も食べていないにも関わらず、
胃の辺りがやたらとつっぱる。
触ってみると固く膨らんでいた。

突如恐慌をきたして身を起こすと、
男は傍らに胃液を吐いた。
すっぱい胃液の他は、
何も出てこなかった。

(……もうだめかもしれないな)

男は寝転がり、
最後の水を飲むと、
そっと目を閉じた。
あっという間に眠りの淵に沈みこんでいった。
 

夢か現かはわからなかった。
男はふわふわと揺られていた。
顔の下にあるのはやわらかく、
いい香りのする布だった。

(……これは……シーツ?)

であれば、
ここは自分の家の寝台か?
今までの地獄はすべて夢だったのか?

何とか確かめたい。
身を起こしたい。
しかし体はまったく言うことを聞かなかった。
身を起こすどころか、
衰弱しきっていて指先もろくに動かせない。
かろうじて微かに動いたのは目蓋だけだった。

たくさんのかがり火らしきものが見える。
大勢が歩いているような音が聞こえた。
結局、自分は捕まってしまったのか?
いや捕まったにしては、
顔の下にある布はやわらかく、
香りは優しかった。

(……つまり私今まさに、神に召されているということか)

どうやら最期は苦しまずに済んだようだ。
それだけでもありがたい。
ほっとした途端、
男の意識はまた途切れた。


目が覚めると、
男は広い板間にいた。

どれだけの時間眠っていたのかわからない。
寝ていた場所が硬い板の上だったせいか、
体のあちこちが痛んだ。

枕も木だ。
短く切った丸太だった。
額に受けた石の傷はまだ痛んだ。
こわごわ触れてみると、
手当のあとがある。

(……生き延びた……のか?)

枕元には自分の水筒がある。
持ってみると、重い。
中が満たされている。
男は大慌てで蓋を取ると、
一気に中の水を飲み干した。
冷たく、清潔な水だった。

一息つき、
男は改めて周囲を見回した。
人間がゆったりと十人ほども横になれそうな広い板間だ。
床は濃い茶色の板でできていた。
簡素な造りだ。
天井は高く、壁は二面あり、
そのうち一面に板戸があった。
残り二面からは広く外が見えた。
明るい日差しと、
重なり合う木々の緑が見える。
森の中にある建物の中にいるようだった。
自分と、
水筒と丸太の枕以外何もない部屋だった。


突然、木戸が開いた。
男の体がびくりと跳ね上がった。
頭を綺麗に剃りあげた青年が入ってきた。
膳を手にしている。
その服と成りを見て、
男はぴんときた。

(ここは僧院だ!)

渡海する前、
唐の港でも僧を見た。
何より、
自分の乗っていた船にも僧が何人かいたのだ。
その時に見た僧の着ていた服と、
男の目の前にいる者の服装はよく似ていた。

僧はにこりと微笑み、
持っていた膳を男の前に音もなく置いた。
そして身振りで、
食べるように薦めた。
大きな椀の中にはたっぷりのかゆが入っていた。

男は匙を取り、
粥をかきこんだ。
熱さに舌を火傷したが、
かまっていられなかった。
粥は甘く、また少ししょっぱく、
松のような深い香りがほのかについていてとても美味だった。
体が栄養を欲していたことがよくわかる。
きちんと調理されたものを食べたのは一体いつぶりだろうか。
腹がじんと熱くなった。

あまりに夢中で食べていたせいか、
僧のあとにもう一人誰かが入ってきたことに男は気づかなかった。

「――言葉はわかるか?」

突然、椀越しに声をかけられた。
男が椀を降ろす。
僧と同じ服を着ているものの、
明らかに様相の違う者が僧の横に座っている。

男は危うく椀を落としそうになった。
黒く縮れた髪。
高い鼻。深い彫り。
青い目。濃いひげ。
なんと懐かしい姿か。

「あ……だめか? 英語の方がいいのか。えーと……」
「いや、わかる! わかるともっ」

男は息せき切って答えた。
少し訛りは感じるが、間違いない。
母国の言葉だった。
男の視界ははや、涙でぼやけた。

「そうか、わかるか! 顔立ちからして神聖ローマ帝国の者かと思ってな。
……いや、嬉しいな。こんな辺境の国で同郷の者と出会うとは。神の思し召しとはこのことだな」

その者はにこりと笑った。

もう二度と聞くことはないかもしれない、
と諦めかけていた母国語だった。
ただ聞いているだけで涙がとめどなくあふれた。
男はしゃくりあげて泣いた。

「君は飲まず食わずで、まる二日間眠りっぱなしだったんだ。……いや、まずは自己紹介だな。俺はイーヴァだ。よろしくな」

黒髪の者が右手を差し出した。
男はその手を両手で握り、
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった自分の頬に、
まるで聖人を崇めるように当てた。

「……私はシュタインだ」
〈続く〉



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