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【歴史小説】ラブリンマン -真説 坂田金太郎- 20-陰謀と忠誠-

朧月夜おぼろづきよに、
その横笛おうてきの音は実に良く調和していました。

哀切でありながら時に力強く、幽玄。
伸ばすべき個所はどこまでもしなやかに細く長く伸び、
切るべき個所はまるで剃刀の刃ですっぱりと断ち落としたようでした。
聴く者が皆、
思わず会話を止めてしまうような。
喜も怒も哀も楽も、
あらゆる気持ちをないがしろにして忘我の境に入ってしまわざるを得ないような。
そんな、
聴く者に安らぎと不安を与える音色でした。

吹いていたのは若者です。
いや、若者というにはまだ少しあどけなさの残る、
目鼻立ちの整った青年でした。
優美な反りを描く太刀を腰に下げています。
いささか豪奢ごうしゃな太刀ではありましたが、
着物の袖から見える骨ばった拳と浅黒く引き締まった傷だらけの腕が、
太刀の所有者がその者であることを饒舌に物語っていました。

若者は、
静かに歩きながら横笛を吹いていました。
歩を進めてもその音に乱れは一切なく、
この世ならざる美しさを保ったままでした。
薄く目を開け、
猫のように足音も立てず歩き、
吹いている当人がその音色に陶酔しているかのようでした。

「……藤原保昌ふじわらのやすまさ公とお見受けいたす」

ちょうど辻まで来たところで、
辻の奥の闇から太い声が若者を呼び止めました。
声に若者は足を止め、
横笛から口を離して顔を上げました。
太い眉を動かさぬままで、
大きな目で闇を射すくめます。

「いかにも。――だが姿も見えぬままでは話が進まん。隠れておらず、陰から出てこられてはどうか」

その声を受け、
辻の陰から男がのそりと姿を現しました。
保昌と呼ばれた若者よりも、
頭一つ分の上背があります。
男は昏く力のある目で保昌を睨みました。

「……これなるは袴垂はかまだれという者」

その姿を視止め、
保昌が微笑を浮かべました。

「これはこれは。今、最も都を騒がせている盗賊殿ではないか」
「ご存じならば話が早い。身に着けている物をすべて置いてゆかれよ」
「拙が藤原保昌と知ってのこととは面白い」
「だから呼び止めたのだ。その素晴らしい太刀、服。怪我をせぬうちに置いてゆかれよ」

保昌はにやりと笑い、
横笛を懐に仕舞いました。
そして両腕を下ろして軽く身から離し、
全身の力をゆるりと抜きました。

「無理にでも盗ってゆかれてはよいではないか。盗賊とはそういったものだろう」
「噂に高い剛の御人。そう来ると思っていた」
「試してみよ。我が天朝に牙を剝く野良犬め」
「手加減はせぬ」

袴垂は腰の物に手をやりました。

「ほう。袴垂殿の特技は居合か」
「……抜かぬのか」
「野良犬退治に得物はいらぬ」

袴垂の目に炎が燈りました。
太刀の柄を握る手に力が入りました。

あと一歩。
一歩踏み込めば間合いだ。
確実に居合で斬れる。
万が一、
一刀目をかわされてもすぐにまた間合いは詰められる。
――抜かぬと申したな。
よし分かった。
彼奴には絶対に抜かせない。
大口を後悔させてやる。

袴垂はじり、
じりと少しずつ足を横に滑らせました。
汗が幾筋も額を流れます。

(……いったい……一体、何が起きている?)

「……踏み込んで来ぬのか」

保昌の声は、
先ほどとはまるで別人でした。
それは太く低く、
がらがらにしゃがれていました。

(何故踏み込めない?)

威圧されているのではない。
なのに、何故だ。
どうして抜ける気がしない?
どうして斬れる気がまるでしないのだ?
恐怖のもっと奥の方。
心の深淵の彼方にある本能のような何かが、
表層に向け語りかけているのか。
「この者に勝負を挑んではならぬ。勝てぬ」と。

「むやみと踏み込まぬのは良い判断だ。そこまで莫迦でもないようだな」

袴垂は太刀から手を離し、
がっくりとひざまずきました。
そして額にびっしりと浮いた脂汗を袖で拭いました。

「……どうしても。どうしても抜けぬ」
「当然のことよ」
「何故だ。貴方の腕は存じている。しかし私とて、腕にはいささか自信が……」
「腕の差ではない。生きることへの、覚悟の差よ」
「……覚悟だと?」
「そうだ。おぬしは私に負けたのではない。盗賊に身をやつしている己に負けたのだ」

保昌は唇の端をゆがめて笑いました。
そして袴垂を尻目に、
おぬしにはもう盗賊など務まらぬ、
辞めよと言い捨てて悠々とその場を去りました。
 


それよりわずか後、保昌は邸内で平伏していました。

「……帝には、麗しきご尊顔を拝し……」
「挨拶はよい。おもてを上げよ。本題だ、保昌」

化粧簾けしょうすだれが遮って、
高御座たかみくらにいる帝の姿は保昌にはよく見えませんでした。


「は」

保昌は両手をついたまま、
ゆるりと顔だけを上げました。

「〈坂〉らの件だ。あれから随分経つが、あれらの暮らしぶりは未だ変わらずか」
「は。こちらからの再三の訓戒もどこ吹く風。変わらず、野の獣を狩り、その皮を剥いて糊口をしのいでおります。その狩りの作法たるや、げにおぞましく……。いえ、帝の御耳にお入れする話でもございませぬ」
「獣と同じ匂いをまとい、獣と同じ声色で獣を追い立てるのであろう。それではもう、まるきり獣だ」
「おっしゃる通りでございます」

顔は見えないものの、
帝が深くため息をついたことは保昌にはわかりました。

「……ただ、あれらの手によって生まれた革はとても質が良いと聞く」
「聞き及んでおります。馬具や武具を拵えるには、どうにも欠かせぬ物であるとか」
「しかし、獣の血を体に塗り、土中に潜みて獣を待つような輩、捨て置くわけにはいかぬ。多くの民草がその在りように怯えておるのだ。……保昌」「は」
ちんは個というものを尊びたいと思う。わかっておるな? 彼奴等とてこの国ののひとつだ、侍や農民と変わらず。禍々しくはあっても、彼奴等の技や智恵、常ならざるものがあろう。それは侍の剣技同様、長き歴史とともに磨き抜かれ、育まれてきたものであるからだ」
「帝のおもんぱかりり、敬服の外ございませぬ。……さりとて、それが時代に即してはおらぬことも事実」
「いかにも。仏の教えを以て国を一つにまとめんとする、この時にだ」
「殺生を禁ずるもまた仏の教えでございます」

ううむ、と帝は呻きました。

「……おびただしき山賊だけでも頭の痛い事であるが」
「あれらとて貧しさと戦乱が産んだ、哀しき澱のようなものであります故」
「そうだ。だからこそ臭い物に蓋を、というように簡単にはいかぬのだ。そんな手荒いやり方を続けていては、民の心はいつまでも一つに溶けまとまらぬ。それこそ唐国の思う壷だ」
「仰せの通りでございます。――畏れながら。私に一計が」
「申してみよ」
「は。今少し機を待つ必要がありますが。山の者は、同じく山の者に片づけさせましょう」
「坂民に山賊を討たせるというのか」
「左様で」
「……そうか。如何にして坂民を動かすというのだ」

保昌は、
再び深くこうべを垂れました。

「そこは、この藤原保昌めにご一任下さいませ。種蒔きから刈り取りまで、万事滞りなく執り行って参ります」

顔は伏せられているものの、
保昌の目はしっかりと見開かれていました。

その瞳の中では忠義の炎が燃えていました。
〈続く〉



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