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【歴史小説】ラブリンマン -真説 坂田金太郎- 10-熊胆-

いくつかの村の男衆が夜に集まり、
総出で山狩りをするのは、
決して初めてのことではありませんでした。

ただ、
この度に至っては少し様子が異なっていました。
鋤、鍬、鎌といった農具で武装した男衆の殺気の度合いが、
これまでとはまったく別種のものだったのです。
そう、
武装という表し方が喩えではないと思わせる、
鬼気迫った様子でした。
それほどまでに、
かの人喰い熊に対する民の怒りは凄まじかったのです。

それぞれが手にした松明たいまつの光が、
小雨に濡れた男衆の顔を殊更異様に照らしていました。
皆口々に、
人喰い熊への呪詛の言葉を吐きながら、
松明と武器を手に山へ向かって一列に歩いていました。


そんな行進を、
夜陰に乗じ、
木々の狭間から見る者があります。
その者は見事なまでに夜に溶け込んでいました。
着物は墨のような黒。
しかし着物の色そのものだけで溶けているわけではありませんでした。
捕食者が通り過ぎるのをじっとやり過ごす小動物のように、
気配をすでに森の空気と一つにしていたのです。

ぴくりとも動かず、
しばらく様子を伺った後その者は森の中に向かって駆けだしました。
一散に駆け続けます。
矢のような迅さでした。
無駄な動きは一切なく、
ただ手と足と体の働きのすべてを、
一刻も早く前に進むということにのみ使っていました。
見る間に、
その者は山を一つ越え、
ややあって足は止まりました。
 
とても静かです。
少し切らせたその者の息だけが、
静寂にひっそりと広がっていました。
その者の前には、朽ちた小さな社がありました。

「……戻ったか。入れ」

社の中からの声に応えるべくその者は音もなく階段を昇り、
森よりもさらに深い闇の支配する社の中に滑り込みました。
そして壊れかけた戸口を背に正座し、
目礼したのちに口を開きました。

「……ついに山狩りが始まりました。熊は山深く逃れているはずですが、すぐに男衆に見つかりましょう」
「そうか。やはり熊胆くまのいが発端か」

声の問いかけに、その者は頷きました。

「今や調ちょうとしても、質の良い熊胆は重宝されています。
先ごろ、わたしが左腕の湯治に赴いた際にも、湯客と思われる薬商人が、別の湯客に問うていました」
「……ここらでは大きな熊は獲れぬか。獲れたら買うぞ、と?」

また一つ、
社の闇の中から聞こえた別の太い声に、
その者は頷きました。

「素人上がりの、かりそめの狩人が大勢、真似事でいたずらに熊を狩っているようです。道行きに、粗雑なくくり罠もいくつか目にしました」
「……の人喰いの、異様な巨体については何かわかったか?」

声の問いにその者は少し目を伏せました。

「確たる話ではありませんが……
手練れの狩人によれば、追っている素人の放った矢がたまさか熊の脳のとある箇所を貫き、それが異様の因となったとか」
「ふむ……止め矢を撃つには駕籠女かごめ、さすがにおまえほどではなかったとしても、それなりの腕がなくてはな。
確かに狙ってやらねば、下手に永らえた獣が哀れというものだ。このような不幸も起こってしまいかねない」
「……畏れ入ります」

駕籠女と呼ばれた者は目礼しました。

「……で、彼奴きゃつの様子はどうだ?」
「たたら場の男と、鋼を鍛えて何やら造っていた様子です。恐らくは、武器を」
「人喰いを屠るための得物か」
「恐らくは。……如何しましょうか?」
「あらかじめ話していた通りだ。おまえは一切手を貸すな。見守ることに徹してくれ」
「それで彼奴が命を落とすことになっても、でしょうか」
「人喰い熊程度で命を落とすなら、しょせん先の大命など果たせぬ」
「……先に男衆が人喰いをたおすかもしれません」
「捨て置け。もし彼奴が、人喰い退治に己から動き出すような者でなければ見込み無しだ」

駕籠女はまた目で答えました。

「引き続き頼む。駕籠女」
「は。つな殿」
〈続く〉



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