【歴史小説】ラブリンマン -真説 坂田金太郎- 26-天狗-その②
目が覚めると、
辺りは薄暗くなってた。
金太は平たい岩の上に寝かされてた。
起き上がろうとして、
背中と腰の痛みに思わず絶叫しそうになった。
こわごわ触れてみると、
ぶよぶよと腫れてて熱を持ってる。
「やっと起きたか。さあ、飯を食え。食って傷を治せ」
声の主は綱だった。
三人で焚火を囲んでる。
竹の串に刺した岩魚が火に炙られてた。
「釣り名人駕籠女が釣った岩魚だ。ありがたく頂けよ」
そう言って綱も岩魚にかぶりついた。
駕籠女も貞光も、
黙々と串を口に運んでる。
脂の焼ける香ばしい煙が金太の所にも漂い、
腹の虫が騒いだ。
鉄みたいに重くなった体に鞭打って、
金太は焚火のそばに近寄った。
「さあ遠慮するな、食え食え。といっても駕籠女が一人で釣った魚だがな」
綱の声を合図に、
駕籠女が特に大きな岩魚の刺さった串を選んで地面から抜き取ると、
横に座った金太にぶっきらぼうに差し出した。
金太はおずおずと手に取る。
「ありがとう。……ございます」
「ん」
駕籠女は頷くと、
また自分の串に取り掛かった。
金太も遠慮なく岩魚に噛みついた。
噛んだ瞬間、
熱い脂が口の中に流れてきた。
微かに塩味がする。
ごくわずかだけれど、
貴重な塩が振られていたんだ。
体が求めてる塩味と、
はらわたのほのかな苦みが相まって、
それは思わず唸ってしまうくらいの美味さだった。
金太は無我夢中で魚を食べた。
「……金太」
貞光が声を掛けた。
「……は。貞光殿」
金太があわてて食べるのをやめ、
貞光の方へ体を向けた。
貞光は手振りで、
食べながら聞いていいと合図する。
「体の痛みはどうだ」
「は。……腫れてるようで。落ちた時に岩で打った背中がやたらと熱いです」
「そうか熱いか。都合良し。その串を食ったら始める。続きだ」
そう言って貞光は立ち上がり、
さっさと歩き出した。
金太はうんざりしながらも急いで岩魚を腹に詰め込むと、
貞光の後を追った。
「滝壺に入れ。滝に打たれよ」
言われるまま、
金太は滝壺に足を踏み入れる。
一度焚火であぶられた身に、
川の水は冷たかった。
滝の真下辺りまで来ると、
深さは金太の腰の少し上ほどまであった。
「背中を、落ちてくる水に当てよ。首を少し前に傾けて。手を前に組め。……そう、そんな具合だ」
金太は言われた通りにした。
「目を閉じよ。得物はまさかりだったな。俎といったか。あれを砥石で砥ぐ様を想え」
「砥ぐ様を……?」
「そうだ。または、あのまさかりを縦横、斜めに振るっておる様を想え。敵を斬っておる様をな。それだけを考えよ」
金太は目を閉じた。
すると急に、
耳と肌の感覚が鋭くなった。
落ちてくる水は重く激しかったけれど、
腫れた体から無駄な熱が奪われてくのが感ぜられた。
体はだんだんと冷たくなり、
痺れていく。
すると一度は鋭くなった肌の感覚も次第に鈍くなっていった。
水が流れる音しか聞こえない。
辺りは真っ暗で、
どうどうと流れる音だけがその世界の全部だった。
そこで金太は俎を振る。
暗闇の中で。環雷と戦った時みたいに。
どう斬るか。どうかいくぐるか。
どう踏み込むか。どう跳ぶか。
どうしゃがむか。どう躱すか。
どう抉るか。どう斃すか。
もっと強く。もっと硬く。
もっとやわらかく。
もっと高く。もっと低く。
もっと迅く。
もっと迅く。
金太はゆっくりと無念無想の領域に落ちていった。
次の日。
また散々崖を登らされては落ちを繰り返した後、
金太は俎を持つよう貞光に言われた。
「今度は滝の前に立て」
金太は言われたようにした。
「もっと前だ。ぎりぎりの位置に立て」
滝のすぐそばに立つと、
飛沫で目が開けられなかった。
「目を閉じるな。飛沫を見よ。見なければ意味がない」
「飛沫を……見る?」
「目に飛んでくる飛沫を畏れるな。滝に向かって俎を振るえ。昨日、暗闇の中で振るったように。上から下へ。下から上へ。左右へ。さあ振れ」
金太は頷き、
目を開けたままで俎を振った。
さっそく貞光の檄が飛ぶ。
「遊んでいるのか⁉ 貴様あの熊と斬り合った時、そんな迅さでそいつを振ったのか⁉ 全力で振れ。一刀一刀、持てる力のすべてを注いで振れっ‼」
金太は歯を食いしばった。
おおおおっ、
と唸ると力いっぱい上から下へ、
下から上へと俎を振った。
「その意気だ。振り続けよ!」
刹那、
俎の上で弾けた水が勢いよく金太の顔にかかった。
思わず顔をゆがめる。
すぐさま貞光の怒鳴り声が飛んだ。
「目を閉じるなあっ‼」
(こっちだって閉じたくて閉じてんじゃねえよっ‼)
金太は悔しかった。
目蓋が心底邪魔に感じた。
いっそ引きちぎってしまおうかと思った。
完全に意地になって、
無理やり目を開き続けた。
そして爪を柄に食い込ませて強く握り、
力いっぱい俎を振った。
「いいと言うまで休まずにやり続けよ」
金太は頷いた。
そのあと一心不乱に俎を振って振って振り続け、
貞光にもうよしと言われたのは夕方だった。
空には一番星が瞬いてる。
合図とともに金太は仰向けにぶっ倒れ、
その姿勢のままでしばらく動けなかった。
貞光殿、
そろそろ夕飯にしましょうという駕籠女の声が聞こえた。
その日、
金太は一度も落ちることなく崖をてっぺんまで登り切った。
「よし」
とだけ言うと、
貞光は上から降りてくるよう金太に命じた。
そしてしばらく滝に打たせた後、
また水に向かって目を閉じないよう俎を何度も何度も振るわせた。
それは金太の腕がもうまったく上がらなくなってしまうまで続けられた。
それが終わると、
貞光は金太をもう少し下流へ連れて行った。
「見よ」
貞光が指さした先を見ると、
川が流れゆく先の岩々に、
所々赤い印みたいなものがついてる。
印のついた岩はおおよそ等しい間隔で、
ずっと遠く下流まで続いてた。
目を凝らして見ると、
その赤の印は足の裏の形を模してるようだった。
「より踏みにくい位置に赤の印がある。岩と岩の間を跳べ。下流まで行け。ただしあの印以外の所を踏んではならん」
「は。……もし、あの赤以外の所に足を着いたら……」
「足を踏み外す。岩の上に転がり落ちる。痛い思いをするだけだ」
金太はごくりとつばを呑んだ。
岩どれもざらざらしてて尖ってる。
確かに、
これには崖から落ちるのとはまた違った怖さがある。
「では始めよ。赤の印が無くなるところまで行け。そこまで行ったら戻って来い。足を踏み外さなくなるまで、赤の印だけ踏んで跳べるまで何度でもやれ。俎をもったままで跳ぶのだ」
金太は不承不承頷いた。
跳んでみると、
岩と岩との間はかなりの幅があった。
相当に勢いと迅さが乗ってないと届かない。
途中で迷っても駄目だ。
しかし一瞬の気の迷いから、
距離が足りずに金太は岩と岩の間に転がり落ちた。
落ちた先には、
大小様々な尖った岩がごろごろしてた。
「……うっ……う……ううう……」
あまりの痛さに、
金太はうめくことしかできなかった。
汗びっしょりになって手元にあった岩をがんがんと拳で殴り、
全身を貫く痛さを紛らわせた。
そして自分がとっている、
仰向けにされた蛙のような姿勢の滑稽さに呆れ、
情けなさに笑いがこみ上げた。
(……なんて莫迦ばかしいことしてんだ、俺は……)
――もうこのまま帰っちまおうか?
おかあとあにいのいる家に。
そんな考えが金太の頭をよぎった。
虫みたいな恰好で崖を這って、
落ちて痛い思いをして。
阿呆みたいに岩をぴょんぴょん跳んで、
落ちて痛い思いをして。
それで、一体なんで侍になれる?
いや――山育ちの自分が侍になるなんてこと自体、
どだい無理があったんだ。
いまやめても、
誰も俺のことを責めないだろう。
……そうだ、あの三人から離れている今なら。
このままこっそり川を下って、それで――
……それで?
それで、どうなる?
今やめて、
一体どうなるってんだよ?
帰るだって?
一体どこへ帰るってんだよ?
金太は貞光の冷ややかな顔を思い浮かべた。
次に綱の顔を思い、
わたしの顔と観童丸の顔を思い、
最後に駕籠女の怒ったような、
それでいて少し悲しそうな顔を思った。
そしてため息をつき、
俎を拾い上げ、
ゆるゆると岩の上に登って深く息を吸った後、
足元の岩を蹴って大きく跳んだ。
その後も金太は何度も岩から落ち、
そのたびに打ち身や擦り傷ができて血が流れた。
岩に擦れて、
服はすぐにぼろぼろになっていった。
でも金太は諦めずに、
傷だらけになりながら何度も岩の上を跳んだ。
「くそっくそっ‼ なんだってんだこんなもん、こんなもんっ‼ 俺は侍になるんだっ‼ 絶対なるんだっ‼ こんなもんっ‼ こんなもんっ‼ こんなもんっ‼‼」
金太は歯を食いしばって跳んだ。
二十七回目の往復でも、
落ちずには帰れなかった。
背中に次いで、
今度は足首の関節と足の裏が熱を持って腫れあがった。
貞光殿、
そろそろ夕飯にしましょうという駕籠女の声が聞こえ、
今夜はきのこ汁だぞ金太、
と綱の声が続いた。
〈続く〉