【歴史小説】ラブリンマン -真説 坂田金太郎- 32-いつの日か、その名を-その①
女は干し肉に使う漬け汁を作っていた。
濃いめの醤に少しだけ味噌を足し、
さらに葉山葵の千切ったものと山椒を加えると味が締まって良い、
とシュタインより教えられていた。
ごく少量を木さじに取って手の甲に乗せ、
女は舐めてみた。
そして首を傾げ、
もう一度さじで掬ったものを持って小走りで洞窟を出た。
「シュタイン。味を見て下さいますか」
洞窟の外で鉈を振るって薪を割っていたシュタインは、
女を見てぎょっとした。
「まだ走らない方がいいんじゃないか? 産まれて何か月も経っていないんだ」
女は微笑みながら自分の腹を撫でた。
「いえ。十月ぶりに体がとても軽くなったので。駆けたくなるのです」
女は持って来た匙をシュタインに手渡す。
「味を見て下さい」
シュタインはさじを口に入れ、
ややあって小刻みに頷いた。
「ま、こんな感じだ。肉の準備はできたか?」
「できています」
「そうか。じゃあ作り方を教えよう」
二人は洞穴に戻った。
そして大きめの木椀に汁を移し、
切った猪の肉を入れて揉みこむ。
「たったこれだけだ。あとは吊るして干すだけだ。そうだな、この洞穴なら吊るして干すにはおあつらえ向きだ」
「腐らないのですか」
「ああ。干す前に、余分な水気を飛ばすことを忘れないように。そうすれば、塩気の濃い漬け汁のせいで乾きやすく、虫も来ないし腐りもしない」
「そうなのですか。不思議ですね、腐らないとは」
「特に狸や、この時期の雄の猪は独特の臭いがある。だからそのまま焼いて食べるより、こうした方が食べやすい。作り方も至って簡単だ」
女は何度も頷き、
感心した。
「シュタインもイーヴァも本当に何でもご存じですね」
「イーヴァと一緒にしばらく住んでいた村の人が教えてくれたんだ」
「ああ。あの――」
山民の話ですか、
と続けそうになって、
女は口を噤んだ。
以前もシュタインに山民の話をしつこく聞いて、
ひどく不機嫌な顔をされたことがあった。
それ以来、
この話はご法度になっていたのだ。
女は話を変えた。
「……他にももっと色々なことを教えて下さい」
「もうすでに色々教えてるじゃないか。食べられる茸や山菜の見分け方、罠仕掛けの作り方、水場の探し方、方向の見定め方、食糧の蓄え方、薬の作り方……」
シュタインは指を折って数えた。
そして、
はっとしたように女を睨んだ。
「馴れ馴れしいまねはよしてくれ。私らと君はただの共生関係だ。私らはじきに、帝を殺すためにここを出てゆくんだ。勘違いするな」
「……申し訳ございません。でも、どうしても、この先必要になる知恵ですから……」
女はそう言って頭を垂れた。
それは明確な意思表示の言葉だった。
シュタインは黙って女を見た。
シュタイン、
と声を掛けられ振り返った。
入り口にイーヴァが立っている。
「帰ったか。獲物はなしか?」
イーヴァはそのまま洞穴には入らず、
顔だけを中に入れて顎をしゃくった。
「……ちょっといいか?」
洞穴からいくらも行かない場所に、
その亡骸は無造作に転がされていた。
服装からして旅人だった。
二人いる。
大きい男は両手足が無かった。
切り落とされ、
あちこち出鱈目な所に放り投げられていた。
他に傷らしい傷はない。
血を流し過ぎて死んだのだろう。
小さい男は、顎
のすぐ下から臍の上辺りまでが刃物で切り開かれていた。
それ以外の傷はない。
両目が、
飛び出さんばかりに見開かれていた。
断末魔の表情だ。
恐らく生きたまま、
じわじわと切られていったのだ。
「惨いことを」
シュタインが顔を背けた。
イーヴァは辺りを歩き回り、
観察した。
「明け方までしつこく降っていた雨のせいで、近いのに悲鳴は聞こえなかった」
「切り口が鮮やかだ。明らかに刀傷だな」
「ああ。山賊の類だろう」
「葬ってやろう。このまま獣に喰われるのでは、あまりに哀れだ」
「そうするか。だがシュタイン、手早くやろう。誰か来るとやっかいだ」
二人は枯れ木で穴を掘るための簡単な道具を作り、
それを使って哀れな旅人の墓穴を掘った。
墓標は、
すぐ近くに古びて割れた地蔵の名残があったので、
それを一つずつ使って拵えた。
一仕事終えると、
二人は墓標に向かってしばし黙とうした。
少しして、
イーヴァがおもむろに口を開いた。
「近頃、この辺りでまた山賊が増えてきた」
「そうだな」
「しかも、こんなふうにあえて残酷に殺す奴らだ。荷を奪うだけじゃなく、面白半分に殺す輩が増えているせいで、俺達にまで迷惑がかかってるんだ」
「……イーヴァ。私達だってさほど変わらんよ」
イーヴァはシュタインを見た。
「それは違うぞ、シュタイン。俺達は殺してない」
「あんたはかつてやってたじゃないか。私と再会する前、山民の里を一緒に出て行った仲間と。山賊として奪っていたし、殺してもいたんだろう」
イーヴァは口を噤んだ。
「……信じていた侍に裏切られたんだ。山民での暮らししか知らない者達が、生きていくために仕方なかった。だが弁解するつもりはない。おまえに責められるのも当然だ」
「責めちゃいないよ。私が言っているのは見られ方だ。制する側からすれば皆同じだ」
――シュタイン、
そういうおまえは変わったぞ。
良いか悪いかという話ではないが、
前はそんなことを言う奴ではなかった。
イーヴァはそう言いたかったが、
あえて口にする必要もなかったので黙っていた。
「イーヴァ。クムとキンノは、しばらく帰らないんだったよな?」
「……ああ、刺子ノ峰の辺りまで獣を追っていくと言ってたからな。まあ、五日は帰らないだろうな」
「そうか。このことを伝えておきたいんだが」
「クムは賢い。目立つようなことはしないだろう。今までだってそうだったじゃないか」
「だといいが」
シュタインは空を見上げた。
さっきまで晴れていたが、
また重い灰色の雲が上空に広がっていた。
吹き抜けてゆく風にも、
仄かに雨の匂いが混ざっている。
雨はそのまま降り続け、
夜半には強く降り出した。
シュタインは洞穴の中で焚火にあたりながら、
藁靴の破れ目を新しい藁で補強し、
綺麗に作り直していた。
女はその横で、
シュタインのために長さと太さが均一な藁を選んでいた。
イーヴァは、
シュタインが作った桑の実のワインに酔い、
洞穴の奥でいびきをかいている。
赤ん坊はその横ですやすやと寝ていた。
シュタインは、
クムとキンノが心配だった。
加えて、
今日埋めた旅人の亡骸も気がかりだった。
大きな穴を掘ってしっかり埋めたはずだ。
……この雨で流されていないといいが。
「……シュタイン。話しかけてもよいですか」
「……何だ」
「難しい顔をしてらっしゃいますね。何を考えてらっしゃるのですか?」
手を動かしながら、
女はシュタインに訊ねた。
「仲間のことを。この雨をどうやってしのいでいるのかな、と」
「そうですか。……今日、名も知らぬ旅人の塚を作ろう、とイーヴァに言われたらしいですね。イーヴァから聞きました」
「この辺りには獣が多いからな」
「シュタインはいつもお優しいですね」
「優しいだって?」
意外だった。
今シュタインの心はささくれ立っており、
それが顔や言葉に出ているだろうことも自覚していた。
特に仲間以外には思いやりを持って接する気もなかったのだ。
もちろんこの女に対しても同様だった。
「ええ。日頃とても怖い顔をされています。初めはそれを恐れていたのですが……でも、違いました。瞳はとても悲しく、また優しいのです。近頃はそう感じていました」
――声は聞こえないけれど あなたの心は感じていました。
シュタインは緩く目をつむった。
女はちらりとシュタインを見て、
また手元の藁に視線を落とした。
久しぶりに、
ほんの少しだけ胸が熱くなった。
女がいるせいだろう。
どうしても面影が心をよぎってしまう。
シュタインはため息をついた。
そんなことでは駄目だ。
私は必ず帰るんだ、祖国に。
……いや。
その前に、
どうあっても帝をこの手で殺してやるんだ。
「申し訳ありません。出過ぎたことを」
女が手を止め、
シュタインに頭を下げた。
「いや。……祖国のことを思い出していた」
「シュタインの祖国……」
「美しいところだよ。この国とは何もかもが違う。この国も山や森は綺麗だが……私の国は街が綺麗なんだ。石造りで、すごく整ってる。建物も、路も、橋なんかも」
女は目を丸くして話に聞き入った。
「それがすべて石でできているのですか?」
「ああ。寺院だってそうだ。この国では木で造られているが」
「そんなことができるものなのですね。橋を石で造るだなんて……何だか信じられないようなお話です」
「木でできた建物だろうが石でできた建物だろうが、どちらも良い点と悪い点がある。文化が違うだけなんだよ」
「まことに。……山や川はあるのでしょうか?」
「もちろん。国土が広いからね。……でも、この国の山の多さにも驚いたけど……。料理も美味いんだ。私は祖国では肉屋をやっていてね。――そうだ。今度は腸詰の作り方を教えよう。さすがにこれはまだ教えていなかったな」
「ちょうづめ?」
「猪の腸を綺麗に洗って、そこに叩いた肉とか、香辛料を混ぜ入れて……あとは蒸したり焼いたり、煮たりして食べる。作り方も簡単なのに美味いんだ。良い店のやつはもう、本当に美味くてね……」
シュタインが中空を見上げ、
陶然とした表情になった。
気づくと、
女は微笑みながらもさみしげな目で、
シュタインをじっと見つめていた。
「本当に、お帰りになりたいのですね。祖国に」
その瞳は潤み、
焚火の炎が返って煌めいていた。
見覚えのある表情だった。
懐かしさとせつなさで胸が痛くなる。
締めつけられる。
シュタインは、
とても目を逸らさずにはいられなかった。
「……ああ。すごく帰りたい。……でも……」
「あなたは、帰る場所があるのに帰る手段がない。わたしは、いつでも戻れるところにいるのに帰れる場所なんてない。とても皮肉ですね、わたし達は」
シュタインは頷き、
女の目を見た。
「……すまない。聞かれるままに私の話ばかりをしていた。君だって、もう……その、帰れないのに」
「そういうところがとても優しいのです、あなたは」
女はシュタインに寄り添った。
ふわり、
と女の匂いが漂い、
シュタインの鼻をくすぐる。
シュタインはそっと女の肩に手を置き、
そのまま抱き寄せた。
〈続く〉