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【歴史小説】ラブリンマン -真説 坂田金太郎- 15-放浪者-その①

この年、この地には飢饉があった。
 
前年から越冬した浮塵子うんかの大発生により稲穂は徹底的に痛めつけられ、
急いで田畑に油を流したもののもはや手遅れだった。
虫祈祷も行ったが、
それもまるで効果はなかった。
近年稀にみる凶作だ。

よって物価騰貴と、
強者による略奪は自然発生的に起こり、
農村はますます飢えてゆく。
里に食べられるものは少なくなり、
人々はひえぬかさえもかき集めて石臼で挽き、
水と混ぜて団子にして食べるほどだった。
これは栄養価がないどころか消化されるものですらない。
単に腹を大きくするだけの代物だった。

大人も子供も、
人は山に分け入って食べられるものを求めた。
といって狩人でもないので、
獣を効率的に得らえるすべも道具も持ちあわせていない。
だから集めるのは野草である。
茸や山菜から草根木皮に至るまで、
およそ少しでも食べられそうなものはなんでも口に入れた。

とにかく噛めればいい。
水気があればいい。
苦くなければしめたもの。
口に入れる基準はそんなところだから、
それらの毒にやられて山中で苦しみながら息絶える者も決して少なくはなかった。

村々の男女、
子供問わず頬はこけ、
眼窩は窪み、肌は土色になり、
手足は痩せこけた。
村のどこかで牛馬が斃れたと聞けば殺到し、
それを捌いて脂気の失われた肉を分け合った。
分け合うなどはまだいいほうで、
肉をめぐって血を見るような争いが起こることもあった。

道には餓死者が累々と斃れていた。
村の辻には、
青い顔で泣く力もなく壁によりかかる子供が何人もいた。
うめき声は、
やがて静寂に呑みこまれていった。
それは息苦しいほどの、
圧倒的な静寂だった。
 


里に降りては絶対に駄目だ、
と男は思った。

男は一度、
小屋の近くの川で死体を見ている。
その時、
男は小屋にあった兎用のくくり罠を持っていたので、
川のほとりに妙な形の枯れ木が倒れており、
その枯れ木に黒い毛の兎が隠れているのを見て小躍りして喜んだ。
ここを水場にしている兎なら、
足跡を目安に罠を仕掛けることができる。
そうしたら新鮮な獣の肉が食べることができるのだ。
男は木の陰で息をつめ、
兎の動きを見た。
少し硬そうな毛がふわふわとなびいている。

と、違和感を覚えた。
毛以外の部分はまったく動いていない。
死んでいるのかと思い、
枯れ草を踏んでわざと音を立てても兎は動かない。
意を決して近づくと、
それは兎ではなかった。
人間の頭だ。
枯れ木に見えたのは、
痩せさらばえた屍の胴体だったのだ。

それにしても、
と男は唸った。
一体に、
これが人間の肌の色なのだろうか?
ここが異国なのは間違いない。
自分達とは異なる、
黄色い肌の人種のことは知っている。
だが、
これはそんな色とも大きく異なっている。
まさに枯れ木の色だ。
肌も乾いてがさがさになっており、
それがまた木の表皮を連想させた。
毛がなびいているように見えたのは、
頭にたくさんの黒い死出虫しでむしがたかっていたからだった。

うつ伏せに倒れていたが、
近づいて顔を見る気はしなかった。
触れることも恐ろしい。
ひょっとしたら、
餓死ではないかもしれない。
どんな病気で死んだかもわからないのだ。

とにかく、
骨と皮だけになった村人が山に分け入って来ている。
里は恐らく尋常ではない。
自分のような人間が降りていって無事で済む気がしない。
まだここに食べ物があるうちは、
もう少し様子を見た方がいいだろう。


男は死体をそのままにして、
かなり上流から水を汲んだ。
そのまま川をさらに上流に向かって歩き、
藪の中へ分け入って、
最近見つけた新しい食料の前に立った。
男の読み通り、
木にはたくさんの実があった。
桑の実だ。
これに狙いをつけていた。

(これくらいの量があれば造れるはずだ)

男はほくそ笑む。
そして指先ほどの小さな赤黒い実の、
よく熟しているものだけを選び摘み取っていった。
摘み取った実は瞬く間に手籠いっぱいになった。

収穫を手に男は小屋に戻った。
戸口には小さな木樽が置いてある。
樽の中をよく見て完全に乾燥していることを確かめると、
男はそれを持って小屋に入った。
そして採ってきた桑の実をあまさず樽にぶちまける。
深さ三十センチ程度の樽の半分までが実で埋まった。

次に男は、
汲んできた水をいったん水桶に全部あけ、
ひしゃくで一すくい取ると両手を洗った。
そして手についた水気を切った後、
やおら木樽に手を突っ込んで桑の実を握りつぶした。
ぐちゃり、ぐちゃりと音を立てて桑の実はどんどん潰れてゆく。
やがて桑の実はかさを失ってゆき、
血のように赤いどろどろの液体になった。

果たして、
男が造ろうとしていたのはワインだった。
小屋の中には果実の甘酸っぱい香りが充満した。

(理屈では、これでこのまま発酵させれば勝手にできてゆくはずだ。酸味の効いた味も風味も、ブドウと少し似ているからな)

異国の地で造る、
見たことのない味の果実。
果たしてこれがどんな味の果実酒になるのか。
男は舌なめずりしながら、
まずは完成を待つことにした。


そのまま、
男は竹でできた座敷にごろりと横になる。
竹の上には大きな毛皮が敷かれてあるので、
寝心地は悪くなかった。
寝心地でいえば、
どういう仕掛けが施してあるのかその小屋には不快な虫が不思議なほど寄り付かなかった。
それが、
小屋に使われている木の材質によるものなのか、
何か虫よけのようなものが壁に塗られているからなのか。
男にはわからない。

しかし、
一見粗末なこの小屋の中にある様々な道具といい、
これを建てた人間の知恵は素晴らしいものだった。
例えば小刀など、
男が初めて手にした時には刃が幾分錆びているように見えたが、
川の石でほんの少し研ぐだけで凄まじいほどの切れ味が蘇った。
干し肉のような硬いものでも、
粘土のように切ることができる。
そんな切れ味の刃物を、
男は自分の国では見たことがなかった。
製鉄、
刃付けの技術が優れているのだ。

そして、
そんなすごい技術を持つ一方で、
里から山に上がってくる人間はあのような枯れ木じみた死体になっている。
飢えてそうなったのか病気でそうなったのかは不明だ。
男はわけがわからなかった。

(とにかく、山に棲む者と里に住む者とでは、生活の様式にずいぶんと隔たりがあるようだ)

そうは思っても、
今は確かめる方法などない。
目をつぶって考えを巡らせながら、
男はとろとろと眠りに落ちていった。
 


恐ろしい夢を見た。

腰の高さまである真っ黒の泥の中を、
自分がもがきながら歩いていた。
泥はとりもちのように粘つき、
一向に前に進めなかった。
辺りは真っ暗だ。
闇のあちこちから、
もの凄まじい哄笑が聞こえた。
足が重い。
渾身の力を込めても、
まるで言うことを聞かない。
もうすぐそばまで来ている。
何かが。
逃げ切れる気がしない。
男は絶叫し、その声で目が覚めた。


全身に汗をかいていた。
そして目覚めても、
やはり闇だった。
深夜だ。
小屋も周囲も真っ暗だった。
突如、男の体はおこりのように震えた。
無理もない。
今の今まで見ていた夢が、
決して現実のものではないと理屈ではわかっているものの、
すぐに実感などできるはずもなかった。

(怖い。怖い。私は一人だ。怖い)

祖国へ帰るなどと決意したものの、
広い海を何日もかけて渡れるほどの船など一体どこで手に入るのか。
港へ行けばそのような船があったとして、
自分が乗せてもらえる保障などどこにもない。
自分で作るか? 非現実的過ぎる。

やはり自分はこの、
名も知らぬ蛮地の粗末な小屋で朽ちて死んでゆくのか。
誰とも会うことなく。
誰にも知られることなく。
男は自分の想像に鳥肌を立てた。
そして昼間見た朽木のような死体を思い出すと、
勝手に声が出ていた。

「ああああああああっ」

久しぶりに声らしい声を出した。
そう思った刹那、
男の気持ちのたがが外れた。
上ずったような唸り声は、
どんどん高くなっていった。

「うわああああああああ! うわああああああああっ‼」

男は絶叫した。
恐慌状態に陥り、
絶叫しながら小屋を転げまわった。
そして小屋を飛び出すと、
またも絶叫しながら辺りの木を力任せに殴りつけた。

「怖いんだ! 怖いんだ! 怖いんだ怖いんだ怖いんだ怖いんだ怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖いいいぃぃぃっ‼
お願いだ、誰か助けてくれええっ‼ 私は……私はここに……ここにいるのに……」

男はいつの間にか号泣していた。
泣きながら叫び、
叫んでは泣き、
あまりにも気が昂りすぎて胃がおかしくなり、
昼間食べたものを残らず吐いてしまった。
むせ返り、咳き込んだ。

そして男は自分の吐しゃ物を平手で何度も何度も叩いた。
泣きながら叩いた。
いつまでも涙は止まらなかった。
〈続く〉



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