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【歴史小説】ラブリンマン -真説 坂田金太郎- 最終話-海が黄金色に染まる時-その②
目が覚めると、
まだ夜は明けきってなかった。
酒に酔いすぎたせいで妙な寝付き方をしてしまったのだ、
と金太は独りごちた。
火照りを冷まそうと、
金太はぼんやりした頭のままで、
まだ暗い街を歩き出した。
ずいぶん歩いた。
町を過ぎた。
家の数が減って、
田畑が多くなった。
まだ金太は歩いた。
田畑がなくなった。
それでも歩いた。
いつの間にか、
金太は森に足を踏み入れてた。
ようやく空は、
微かに灰色がかった青に染め変えられてた。
川に出た。
川幅は広い。
水音は静かだった。
身を清めよう、
と金太は思った。
頭から冷たい水を被れば、
少しは気持ちもすっきりするかもしれない。
金太は川に足をつけた。
思った以上に冷たい。
辺りは静まり返ってた。
対岸にはすぐ山があるものの、
鳥もまったく鳴いてなかった。
水音しか聞こえない。
不思議なこともあるものだ、
と金太は思った。
ふと、
気配に気づく。
気配の方に金太は視線をやった。
男が一人いる。
縮れた褐色の、伸び放題の髪。
髭だらけの顔。
左まぶた上にある、
角みたいな瘤。
体中に無数についた、
刀傷と思しき痕。
高い身の丈。
シュタインだった。
やつれてはいるものの、
すっかり日に焼け赤銅色になったその腕や体には無駄な肉が一切無く、
がっしりと引き締まってた。
そして、
とても優しい目をしてた。
金太は目を瞠った。
そして確信した。
――この威容。
こいつに間違いない。
クムが死に際、
口にした名前。
都を畏れさせている土蜘蛛の頭領。
帝に弓引く者。
見たことはないが、
間違いない。
こいつが、酒呑童子だ。
同時に、
金太は不思議な気持ちを抱いた。
――なんだ、
この言いようのない気持ちは?
聞いてた通りのなりをしてる。
まったく聞いてた通りだ。
でも、
何故だ。
どうしてこいつは、
こんなにも俺に似てるんだ。
この……この、
体の奥底から沸き起こってくる気持ちの正体は、
なんだ。
シュタインが静かに口を開いた。
「……なにものだ」
金太はシュタインに体を向け、
下腹に力を入れた。
「摂津源氏、源頼光が臣下の者だ」
シュタインは頷いた。
「そうか、頼光の。……私の命を狙う侍だな」
「いかにも。――これより数日ののち、俺は貴様の命を貰いに行く。心しておけ」
「何のため私を殺す」
「言うまでもない。正義の行使だ。民の牙として、貴様を討つ」
そうなのだな、
と言ってシュタインはまた曖昧に頷いた。
「これ以上聞くまい。侍には侍の道理があるからな。……しかし」
おまえはどうなんだ、
とシュタインは金太を指差した。
「言わずともわかるだろう。……おまえのその顔。おまえは純粋な、この国の人間ではない。おそらくは私のゆかりの一族のものだ」
金太はその言葉に少しはっとして、
おし黙った。
自分の中にシュタインの血が流れてることなど、
金太は知る由もない。
シュタインも、
また……ああ、ああ。
金太の中に、
自分の血が流れてるなんて……ああ。
思いもよらなかったんだ。
でも、
金太はゆっくり頷いた。
そして言ったんだ。
「何色の血が自分に流れているかは関わりない。おこないは血でなど決まらない。おこないを決めるのは意志だ。そして、意志をつらぬき通す信念だ」
シュタインは黙って頷き、
かすかに微笑んだ。
「それもいいだろう。いつかわかる日が来るはずだ。意志や信念ではどうしようもないことだってある、とな。……だがな、若き侍よ。おまえは異人だ。彷徨人だ。この私と同じようにな。侍の成りをしようが、この国では招かれざる客なのだ。そうであることはおまえが一番よく知っているだろう」
異人、
と面と向かって言われたもんで、
金太の心には波風が立った。
波風はすぐにおさまらず、
金太の肌を粟立たせた。
金太の内に生まれたかすかな弱気を見透かしたのか、
シュタインは慈しむような悲しい笑みを浮かべたんだ。
金太にはその時、
シュタインが途轍もなく巨大に見えた。
決して越えられない壁のように、
巨大に。
その壁は、まさに――。
その赤銅色の岩みたいな体中を覆う、
大小様々な傷は紛れもなく血みどろの戦いの印しだ。
その傷という傷ぜんぶに、
その優しい目に、
彼が今ここに存在することの意味と、
彼の揺るぎない強い意志と、
決して金太が侵すことのできない鋼のような信念が宿ってるように感ぜられたんだ。
金太は目を逸らしてしまいたくなった。
「……おまえ――なんなんだよ? 一体……何者なんだよ、おまえはっ⁉」
金太がようやく絞り出した問いに、
シュタインはゆったりと答えた。
「私はただの商人だよ。ずっと前に、嵐によってここへ流れ着いた。それから十五年以上もこの国を彷徨っている。……土蜘蛛と呼ばれ始めたのが何年前からかは覚えていない。そう呼ばれるのもやむを得ん。人を殺めねば、鬼にならねば生きてゆけなかったのだからな」
「…………」
「私は今も自分の国へ帰ることを諦めていない。いつか必ず船を手に入れて、相棒と一緒に帰るつもりだ。――だがその前に帝を殺す。時間は掛かっているが、何としてもこの手で殺す。絶対に殺す。それが気に喰わないのなら追ってこい」
「……なぜそうまでして帝を狙う」
「決して許されぬことをしたからだ」
「許されぬこと?」
「おまえが知る必要はない」
「本当に……本当に、おまえがたくさんの人を殺したのか?」
「……殺したさ。だが本当に殺したかどうかなど、侍であるおまえには関係のないことだ。そうだろう?」
シュタインの後ろでかすかに水の跳ねる音がした。
後ろにもう一人、
男らしき影が見えた。
「シュタイン、もう行こう。――小僧、貴様も侍なら俺達のことをよく知ってるだろうよ。俺達は手ごわいぞ、決して油断するなよ。……今ここで殺してやってもいいんだが」
「俺はこの歳まで山で育ったんだ。おまえらのことなどよく知らん。ただ討つのみだ」
「山で育っただと?」
シュタインが怪訝な顔をした。
「おまえ、父親は?」
「知らん。生まれた時すでにいなかった」
「おまえの名は何という?」
「俺の名は――」
突然、
甲高い笑い声が静けさを打ち破った。
金太がはっとして声に振り返る。
岸辺を、
数人の子供達が追いかけっこをして走り去っていった。
慌ててシュタインの方に向き直る。
いつの間にか、
川面からは靄が立ち上ってた。
刹那、
山際から朝陽が差した。
強い陽の光によって靄はより白く輝き、
金太の目をくらませた。
一陣の風が吹き、
靄を散らす。
二人の男の姿は、
もうどこにもなかった。
辺りからはようやく音が戻ってきた。
酒呑童子を成敗するために、
金太達四人が馬で都を出たのは早朝だった。
金太は駆ける馬に揺られながら、
今朝の不思議な出来事について思いを馳せてた。
気づくと、
金太は都の大橋のたもとに座り込んでた。
うたた寝をしてたのかと言われれば、
そうだったのかもしれない。
酒が体に残ってなかったとは言い切れない。
あれが夢ではない、
とも言い切れない。
果たして現実なのか、夢なのか。
しかし――と金太は思った。
それすらもう、
今の金太にはどっちでもいい話だった。
試しに、
駕籠女に聞いてみた。
あれは夢だったのでしょうか? と。
駕籠女は夢だ、
と断じた。
そうでしょうかと尋ねる金太に、
駕籠女は笑いながら言った。
「わたしと神と、どっちを信じる気なんだ?」
夕方近く、
四人は尾根に着いた。
四人は馬を降りて休ませ、
自分達も一息ついた。
そこからは周囲を広く見渡すことができた。
西方向へ見下ろすと、
朽ちた小屋がある。
その小屋の下方には小川が流れてた。
金太は、
その先に視線を飛ばす。
荒地と、
遥かに砂丘が見えた。
その奥には海があり、
さらに向こうで夕陽が燃えてる。
鮮烈な赤色だった。
胸が締めつけられるような。
「……胸が締めつけられるよなあ」
唐突に綱がそう呟いた。
金太は、
自分の胸中が見透かされたのかと思い、
どきりとした。
「あの夕陽の赤だけは。本当に美しいよ。恐らくこの先、何百年経とうがあれは変わらず燃え続けるんだろうよ。そして一体この先何百年経てば、人の手であの色を作り出せるようになるんだろうな。なあ貞光?」
「それは無理と言うものでしょう。あれは御仏そのもの。人の身でそれをどうこうなど、時を経ても成し得ぬ夢かと」
「ま、そういうことだな。成し得ぬからこそ美しいのよ」
金太は呆然と海を見てた。
山育ちの金太は、
海を見たのはこれが生まれて初めてだったんだ。
美しいと思う前に、
金太には不思議でならなかった。
夕陽は赤いなのに、
どうしてか波に反射ると光は金色に変わってるんだ。
そこに、
ひとつとして同じ金色はない。
無数の金色が、
それぞれに与えられた刹那の命を煌めかせ、
全身を震わせて謳ってる。
無限の乱反射を繰り返しながら。
とてつもない迅さで。
とてつもない広さで。
とてつもない大きさで。
遠く、遥か彼方まで。
「――でええっっ……けえなあああ~~~っ‼」
心底感心した金太の口から、
ごく自然に素っ頓狂な声が出た。
その声があんまり間抜けだったもんだから、
綱も駕籠女も、
貞光ですらも思わず大声で笑ってしまったんだ。
笑ってる三人を見て、
金太は激しく赤面した。
でももう夕陽の赤のせいで、
四人全員の顔は同じように真っ赤に染まってた。
綱が、
なおも海を見つめながら言った。
「金太、俺はな。夕陽に海が染められた時が大好きなんだ。海が金色に光る、この時がな。ここでは誰もが静謐でおごそかな気持ちになれるからな。――そこでだ」
「……はい」
「おまえの諱名を、この渡辺綱が付けようと思うが。どうか」
刹那、
駕籠女の顔がぱあっと明るくなった。
そりゃそうさ。
それは侍であることの証しだからね。
金太はとうとう、
己の力でそれを掴み取った。
血と泥と反吐にまみれながら。
それが正しいことなのか、
そうじゃないのか。
それは金太にしかわからない。
……いや、
今の金太にも、
きっとわかりゃしないだろう。
それは金太が生きてゆくなかで、
幾度も暗闇を彷徨いながら手探りで見つけてゆく答えなんだろうさ。
だって、
いつだっていっとう大事なことは、
自分一人で気づくしかないんだからね。
「……もったいのうございます」
綱の申し出に金太は頷き、
曖昧に微笑んだ。
どうして微笑んだかって?
なんと名付けられるか、
もう金太にはすっかりわかってたからさ。
「……では金太。いや、坂田金太郎。おまえの名は、今この時から――――」
〈ーThe Rambling Men 完ー〉