【歴史小説】ラブリンマン -真説 坂田金太郎- 17-イーヴァと山の民-その④
山民の隠れ里には、
なるほど坂の民と呼ばれるに相応しい要素が多分にあった。
シュタインの目には、
緩やかな山の斜面に、
まるで一つの村が田螺のようにへばりついているように見えた。
斜面の最も下方には大木で設えられた大きな山門があり、
その山門から同じく大木の塀が村をぐるりと一周している。
数十戸ある民家は、
村の中央に鎮座している社殿のような建物から放射状に等間隔で散らばっていた。
斜面のあちこちには巨大な岩が出っ張っており、
その岩の形を利用して何やら訓練施設のような建物やいくつかの櫓が、
やはり大木によって組まれていた。
(……まるで要塞だ)
シュタインは山門をくぐってから落ち着きなく、
ずっと周囲の風景に目を奪われ続けていた。
シュタインは決してこの国の文化に詳しいわけではないが、
それでも小屋に住んでいる頃はしばしば里の様子を伺いに降りて行っていた。
その時に見た家々の形とこの村のそれとは、
異国人のシュタインから見ても明らかに異なっていた。
同じように板塀と土で造られてはいるのだが造形がまるで違うのだ。
人々の服装もどこか違う。
女の服は里のものとあまり変わらないものの、
男の服は、
前を合わせているという点では同じだが、
下半身の造りがまるっきり違った。
膝から下に布が幾重にも巻かれており、
走ったり動いたりするのに都合が良さそうだった。
そして女も男も一様に、
色は墨のような黒だ。
何よりシュタインが目を瞠ったのは、
その容姿の美しさだった。
あくまでシュタインの祖国、
つまり神聖ローマ帝国における美的感覚を鑑みて、
男も女も子供もみな整った顔をしている。
鼻が高く、彫りが深く、目が大きい。
この国の人間にはあまり見られない顔立ちだった。
どちらかというと、
シュタインやイーヴァに近い雰囲気があった。
「どうだ、シュタイン。人々の顔が懐かしい感じだろう」
軒先に野菜を吊るしている女をぼうっと見ながら歩いていたシュタインに、
イーヴァがにやにやしながら言った。
「……ああ、本当に。美しい人が多い村だな」
「しかも、男も女も皆背の高い。あの顔立ちで体も大きいから、俺の容姿もさほど珍しがられなかったんだ」
シュタインは小屋で見た青年の、
平たくて丸い顔を思い出した。
「何故そんな容姿なのかは俺も知らない。山民は何百年も前に、海を渡ってこの地に移ってきた一族の末裔なんだそうだ。この国に多くいる民族とは、そもそも生い立ちが異なる。だが、それ以上は聞いても教えてくれないんだ。やっぱり俺だってよそ者だからな」
その文化を継承しているから、
着る物も食べる物も生活様式もすべてこの国のそれとは少し異なるんだ、
とイーヴァは続けた。
通り過ぎる男の一人が、
イーヴァ! と名を呼んだ。
おう、
とイーヴァが片手を上げて応じると、
その手を上げたままで素早く奇妙な動きをした。
対する男も、
あー、と笑顔で答え、
同じように両手を素早く動かし、
身振り手振りでイーヴァに何かを伝えた。
男は大声で笑いながら歩き去って行った。
「今、何をしたんだ?」
「今? ……ああ、手話だよ」
「シュワ?」
「手で話す、と書いて手話だ。山民はこの国の言葉と手話を混ぜて会話するんだ。手の動かし方ひとつに様々な意味がある」
「……手話か……ジェスチャーみたいなことかい?」
「もっとずっと複雑だ。ここでは子供だって皆手話を使いこなす。でも、普段はあまり使わないよ。ちなみに今のは、卑猥な話だったからあえて手話を使ったんだ。女子供に聞かれてはかなわん」
イーヴァは大声で笑った。
つられてシュタインも笑った。
「楽しそうだな、イーヴァ」
「まあね。懐かしの我が里だからな……いや、浮かれてばかりもいられないがね」
シュタインはまず、
里の中央にある社殿のような建物に通された。
そこで湯を使わせてもらい、
埃と垢を落とした。
そして湯から上がり、
通された部屋に一人で座っていると、
女が膳を二つ持って入ってきた。
肌の色が透けるように白い、
まだあどけなさの残る美人だった。
ほんの少し垂れ下がった目はぱっちりと大きく、
瞳は鳶色だった。
小さく薄い唇は血のように赤い。
鼻も小さく、
ほっそりとしていて形が美しい。
総じて、恐ろしいほど整った顔だった。
やはり墨色の、
ひざ丈の着物を着ている。
女はにっこり微笑むと、
膳の一つをシュタインの前に置き、
食べるような身振りをしてみせた。
「……ありがとう」
挨拶や、
いくつかの簡単な言葉はシュタインも覚えていた。
と、女は軽く頷いて、
左手の甲をシュタインの方に向け、
薬指と小指だけを立てて上下に動かすような仕草を作った。
そしてまた微笑むと、
もう一つの膳をシュタインの膳の横に並べて置き、
一礼して部屋を出て行った。
シュタインは膳に取り掛かることにした。
米の飯と汁、
そして野菜と肉を煮合わせた物が椀には盛られている。
小さな徳利と猪口も添えられていた。
悲喜院で食べた粥も素晴らしい味だったが、
ここの料理も思わず唸ってしまうほど美味だった。
酒もさらりとしていて、
実に飲みやすかった。
ワインよりも上品な味だ、
とシュタインは思った。
夢中で食べ、
飲んでいるところにイーヴァが入ってきた。
シュタインはほっと胸を撫でおろした。
「これっきり戻って来なかったらと心配したよ」
「いや、年寄りは話が長くてかなわん」
「今、とても綺麗な女性が食事を持ってきてくれた」
イーヴァはシュタインの横にどかり、と座った。
「綺麗な女? どんな女だったんだ?」
「色が白くて、華奢で……この国の言葉でありがとう、と言ったつもりだったけど、発音が悪かったか伝わっていないようだったよ。手話で返事をされた」
「……ああ、なるほど。それはゆきだな」
「ゆきさんと言うのか。とにかく美しかった」
「確か歳の頃もおまえと同じくらいだ。あの子は耳が聞こえないんだよ」
「……耳が?」
「ああ。赤ん坊の頃に高熱を出したんだそうだ。それで耳が聞こえなくなった。だから相手の唇を読む。おまえがありがとうと言ったことは唇の動きでわかったんだけれど、言葉を発することができないから手話で返すしかなかったんだな」
「それは申し訳ないことをした。……謝らなきゃあ」
「いいって、気にするな。本人だっていちいち気にしてやしないよ……それより俺も腹が減ってるんだけどな」
「ああ、すまない。食べてくれよ」
まともな食事も酒も久しぶりだ、
と言ってイーヴァは料理に取り掛かった。
食べながら、
イーヴァはまだシュタインにしていない話を始めた。
この山民には独特の掟や風習があった。
例えば肉食である。
平地に住む農民と違い、
山民は基本的に狩りで生計を立てていた。
つまり獲った獣の皮革や毛皮、
牙や爪などを都に卸し、
その対価で生活をしているのだ。
よって食べるものは、
農家より買い上げた米や麦、
里の中の畑で採れたわずかな野菜、
そして皮を剥いだあとの獣の肉だった。
皮革も毛皮も、
馬具や侍装束などを作るには絶対数必要であったため、
都からの需要が途切れることはなかった。
何より山民の里は女子供合わせても百人に満たないほどの規模であったので、
これらの方法で一族が十分に食いつないでゆくことができた。
そしてそのやり方が成り立っているということは、
獲物がある程度一定してあるということを指し示しており、
すなわち山民の狩りの腕前が一級品であることも意味している。
山民の男達はどれも狩りの達人だった。
放った矢が一撃で獲物の急所を貫かないうちは、
男達の間で一人前とは認めてもらえなかった。
山野を駆ける時は鹿のように迅く、
木々を縫って跳ぶ時は猿のように軽やかに、
獲物を仕留める時は熊のように一撃で、
というのが山民の男達の合言葉だった。
狩りを滞りなく進められるよう、
弓矢や山刀の使い方以外にも、
山民の男達は多彩な技を持っていた。
その一つが手話である。
見つけた獲物に気づかれることのないよう、
物音を立てずに連携を取る必要のある時、
山民の男達は表情と手話を組み合わせてこれをこなした。
他にも山言葉という、
男達が山中でしか使わない言葉もあった。
手話と、
この山言葉を使いこなせることが山民の男において成人を意味する。
また獲物に近づくため、
もしくは獲物に気づかれないための工夫も、
シュタインの想像をはるかに超えていた。
彼らは猪を獲る時は猪、
鹿を獲る時は鹿、
それぞれの血や排泄物を体中に塗りたくり、
人間の匂いを消すのである。
そして時には、
人ひとりがやっと入れるほどの大きさの穴を掘り、
体に汚物を塗ったままの状態でその穴にすっぽり入る。
入ったら枯葉をその穴と体との隙間に入れ込んで、
編傘で入り口にぴたりと蓋をするのだ。
そうして編傘のわずかな隙間から外を覗き、
三日だろうと四日だろうと獣道のそばで息を殺し、
水を舐めながら獲物を待つ。
それが合理的な狩りの方法だからそうしている、
と山民は言う。
自分達、
ひいては人間すべてはあくまで山に棲む獣の一種であり、
つまり自然のことわりの中に生きることが最良のやり方なので、
どれだけ山に溶け込めるかが大事である……
というのが山民の考え方である。
「俺はその考え方に感銘を受けたんだ。確かに血や排泄物を体に塗るのは抵抗があるよ。だが、そういった行動や彼らの獣を屠る時の手際も含めて、どれもが慈しみと尊敬の心に基づいていると俺は見ているんだ」
「慈しみと尊敬の心?」
「そうだ。人間は生きるために何かの命を奪う。彼らは、自分達が自然の理の中で生きていることを知っているからこそ、命を奪うことにも真摯なんだ。だから獣に余計な精神的緊張も、無駄な苦しみも与えない。殺す時は潔く、必ず一撃だ」
「……一撃か」
シュタインは、
盗賊ののどをまさに一撃で掻き切った男達の手際を思い出した。
確かに盗賊達は死の一瞬前まで、
自分の真後ろに立つ山民の存在にすら気づいていなかったようだった。
「……しかし、イーヴァ。あの盗賊達は……あれは殺す必要なかったんじゃないのか? 適当に痛めつけて追っ払っておけば……」
「それはまた別の問題だ。そんなことを続けていては、一族はとっくに歴史の闇に葬られていた。山民は莫迦じゃない。自分達の生き方が時代に則していないことだってよくわかっているさ。だから自分達の領域を理解し、守っている。狩りだって範囲を決めてやっている。都にも特定の人間しか降りて行かない。一族の人数も一定以上は増やさない。……とにかく国には迷惑をかけないよう自分達でやっているから国も干渉しないでくれ、ということなんだよ。だからあんなふうに、ずけずけと領域に踏み込んできた不躾な奴らは慈しみの心を以て一撃で殺す」
「不可侵条約のようなものか」
「そうだ。そうやってずっと世の中とバランスを取ってきた。……だいたい、殺した相手は盗賊だからな。帝にとっても頭の痛い存在だったことは間違いないのさ」
シュタインは曖昧に頷いた。
一応納得はしたが、
合点がゆかないとも感じる。
しかし十三年前のイーヴァの命を救った恩人の一族であることは事実だ。
そしてそのイーヴァは自分にとって恩人も同然だ。
「まあ、おまえが言いたいこともわかる。だがまずはここで、俺と一緒にしばらく暮らしてみるんだ。俺の口から説明するだけではらちがあかん。時間をかけて一緒に暮らすうちに、肌で色々なことを理解していけると思うんだがな」
シュタインは頷いた。
「あんたがこの国の言葉をぺらぺら話せることにも納得がいったよ」
「手話を組み合わせるから覚えやすいんだ。シュタイン、まずは簡単な手話だけでも覚えた方がいい。あれはすごい文化だ。あれを覚えると言葉で伝えることの無意味さを痛感するぞ。無駄な会話が少なくなって、本当に伝えるべきことをはっきりと伝えられるんだ」
シュタインはゆきの顔を思い浮かべた。
「わかった、覚えてみるよ。……ところでイーヴァ、あんたはそんなに好きなこの村をどうして出て行ったんだ?」
「ああ、それは――外の世界を見たかったからだな。何せここは閉鎖的な村だから。一通り言葉も覚えられたし、この国のルールも教えてもらった。だから、一度普通の人々や暮らしというのも見てみたくなったんだよ。で、半年以上あちこちを見て回ったのちに、あの悲喜院に辿り着いた」
「そうか。……で、どうだったんだ? イーヴァの目から見たこの国は」
「シュタイン、おまえも手痛い目に遭ったからわかるだろう。山民の一族と同じように、この国は本当に閉鎖的だ。前も話したが、この国の独自の条件がこの国にいびつな人間関係と陰に籠った性質を生んでしまっているように思える。ここは、まだまだこれからの国なんだ。……まあ見てろ。これからだ」
イーヴァは独りごとのように言って、
徳利に残った酒を一気に飲み干した。
酔いのためか、
いつの間にかイーヴァの目はどろりと濁っている。
シュタインはイーヴァから視線を逸らし、
またゆきのことを考えた。
そして、
まずは挨拶の手話から始めよう、
と決心した。
〈続く〉