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「無動」の合間に広がるひとつの世界
パーキンソン病になると、「無動(むどう)」と呼ばれる症状が表れる。体が思うように動かなくなり、まるで時間が止まったかのようにじっとしてしまうのだが、この状態は自分自身でも不思議な感覚だ。外から見れば、こちらが静止しているのか、意識があるのか、どのように見えているのか自分にはわからない。しかし、内側では何もないわけではない。
無動になっているあいだ、心は別の世界を泳いでいるような気がする。意識が途絶えているわけではなく、むしろ落ち着いた場所で思考が自由になっている。
具体的に何を考えているか、あるいは何を感じているのかは、あとから振り返ると曖昧になることも多いが「身体の世界を一休みしている」という安定感のようなものが、ぼんやりと存在する。
誰かに呼び止められると、その瞬間にふっと「こちら側」の世界へ意識がもどってくる。それまでは遠いところで響いていた音や声が、鮮明に耳に入ってくる。
「いま、私はここにいるんだ」というはっきりした実感が芽生える。そして身体にも「動かなければ」という信号が届き、ゆっくりでも動作を再開する。ちょうど、深い眠りからふいに覚めるように。
では、無動のあいだは本当に「どこ」にいたのだろう。身体は動いていないが、意識だけが遊んでいる時間と空間。そこは、意外にも安らかな印象を受ける。
実際のところは、脳や神経系の働きが複雑に組み合わさって生まれる生理的な現象にすぎない。しかし、本人が感じている世界はもっと深く、かすかな広がりを帯びている。
他人からすれば、無動のときの私はただ「動かない人」「表情の乏しい人」に見えているのかもしれない。きっと「声をかけたら急に動き出したけれど、さっきまではまるで時間が止まったみたいに静止していた」という印象にとどまるだろう。
けれど私の中では“空白”ではなく、言葉にならない思考が確かに脈打っている。その世界は、普段慌ただしく動き回っているときにはなかなか触れることができない、ちょっと不思議な安息の場なのかもしれない。
身体が動かない状態になるのは、不自由でもあるし、誰かの助けがほしいもどかしさを感じる瞬間もある。それでも、無動の合間に「もうひとつの世界」へ行けるような気がしている。それは「ここではないどこか別の世界」と呼べるかもしれない。
そうして、私は無動の時間を含めた二つの世界を行ったり来たりしながら、ゆっくりと生活する。外から見える姿だけではわからない、私の心が泳ぐもうひとつの世界は、けっして無であるわけではなく、静かだけれど確かに豊かな場所なのだ。