かみさまのこえをきかせてください


日本の西の果て、そこには玄界灘、角力灘、そして東シナ海がありその先には大きな大きな陸地のかたまり、人間が住むユーラシア大陸が横たわる、

わたしたちが日頃から漕ぎいでる相模湾、その先には太平洋が茫漠ととりとめもなく広がる大自然、海、
まったく海のエネルギーが違う、

大陸を通ってくる風と海の上を抜けてくる風とが違うように、そのエリアにおおう空気そのものもまったく違ってくる、

そんな地理的なことだけでなく、人間がおりなす文化や文明、そして民俗学という観点からもこの日本列島、九州の西の海とその沿岸は複雑で雑多な人間が作ってきた長い歴史がところ狭しと沈黙するように横たわる、

人間の歴史といえば、だいたいが悲惨で哀しいことばかりで、

美しくキラキラと光り輝く海をみるたびに頭をよぎることば

わたしが尊敬する小説家の一人でもある「遠藤周作」のことばで、長﨑の外海(そとめ)にある沈黙の碑に刻まれている

「人間がこんなに哀しいのに 主よ 海があまりにも碧いのです」

という言葉をいつも思い出す、


まさにこの海域と沿岸には、そんな叫びのような、目に見えないけども混沌としたエネルギーが漂っているのだ、

だからこそ昔からこの場所には様々な宗教が根をおろそうとしてきた、
古神道、仏教、儒教、道教、そして切支丹(キリシタン)、

長い歴史がある格式の高い神社やお寺、そして教会群、そんな形跡がいたるところに残っている、

かつての隠れキリシタンが聖地として密かに大切にする殉教地、

それだけでなく今の私たちには見えない、人間の念や願いや祈りが、その大地にも海にもところ狭しと漂っている、うごめいているようなのだ、

昨年2024年の3月に広島をスタートして、ヒロシマ・ナガサキを漕いでつなぐ愛と祈りの航海をしたことは、このnoteを読んできてきた人は皆知っていることだろう、

このnoteでもその模様を書き綴ってきたけども、前回の投稿で、関門海峡を通過して宗像(むなかた)まで頑張って書き綴ってきたけども、なかなかその先に進まない、

宗像大社の山奥にある原始的な祈りの場が言葉に表せないほどにすごすぎただけではない、

今年戦後80周年、原爆投下から80年の節目の大切な年で、
今年もこの3月20日の春分の日に舟出して長﨑から広島をめざす航海をいまだかつて上陸したことがない鹿児島や宮崎、愛媛を経由して、広島までつなぐために漕ぎ進もうと計画しているにも関わらず、気持ちがなかなか乗ってこないのだ、

いや、そこに大きな導きをまったくといっていいほどに感じないのだ、

クレアナ、使命感を感じないのだ、

どうしてだろう、とずっと毎日のように、わたしはその時の風景とそのキラキラと夕日に輝く西の海と長﨑とその周辺の大地から感じた波動を思い出そうとしていた、

その理由がぼんやりと解ったような気がする、

それは前述のとおりで、あまりにもこの平戸、長﨑とその周辺の海域と沿岸には、いまだに癒やされないでいる人間の念や祈りの波動が行き場もなく解放されないで漂っているのだ、

それは昨年に9月に平戸から宇久島、野崎島、に漕いだ時にも叫びのように強く感じたエネルギーでもあった、

そして、わたしは昨年のヒロシマ・ナガサキ 愛と祈りの航海がまだ終わっていないのいだということにきずいた、

海を漕いでつないだけども、そこにはじゅうぶんな祈りと愛がそそがれていないように感じるのだ、

たしかに、わたしたちは昨年3月、広島を舟出する前に、遣新羅使一行が必ず立ち寄り安全祈願をしたという今もその時代のままの自然が残る、瀬戸内海に浮かぶ神聖な倉橋島の桂浜でPIlialoha を元気な葉山のモアナケイキの子どもたちと地元の子どもたちも一緒に皆のマナを込めてリギングをし、1300年以上からそこに鎮座する桂浜神社の宮司さんに、由緒ある航海安全の祝詞を唱えていただき、そしてマウイのアンクルKimokeo にもマナにあふれる太平洋の海洋民族のオリを唱えてもらった、鳥肌がたつほどにまさに時空を超えた素晴らしい体験だった、そして、Pilialoha (一つの愛とい名前のカヌー)がその砂浜に一晩たたずんでいるだけで、砂浜にねむっていた何かが目覚め解放されていくのを感じたことを思い出した、
そのあとも上陸し献水をして海と大地に祈りをするたびに、その目覚めとエネルギーの解放は、瀬戸内海の島々と海で続いていた、

天候があまりよくなかったということもあるが、江田島で地元の海を愛する仲間たちと数日過ごし、地元の人たちの手厚いサポートもあり、広島平和資料館にも子どもたち皆で見学に行き、広島平和記念公園にも皆で祈りを捧げに行く時間を十分にあった、ビーチクリーンをし、ホクレアのMoananuiakea の上映会をすることもできた、

江田島から漕いで行く途中の広島湾と島で何度も祈りをささげ、
子どもたちと一緒に川を漕いで上陸した原爆ドーム前では地元の海を愛する仲間たちのアロハでウェルカムな雰囲気のなか、祈り、献水、語りべの方の話も聞かせていただき、とにかく広島では有意義でアロハのある交流と祈りの儀式が自然とできたのだった、まさに調和と愛、そのものの時間だった、

クルー皆が、Pilialoha が「ヒロシマ」に寄り添う時間がたくさんあった

それに比べると、天候がよかったということもあるが、九州、玄界灘に入ってからは、ほぼ毎日のように移動し、宿も毎日変わるほどに、先を急いだ、
アンクルがハワイに帰国する日が迫っていたという気持ちの焦りがわたしにあったのか、ただ漕いで前に進むこと、『ヒロシマとナガサキを漕いでつなぐ』ことを完結すること、達成することを目標に漕いでいたような気がする、

アロハを込めて海を撫でる、E hoe pu me ke aloha が二の次になっていたのかもしれない、 祈り、愛を海と砂浜にそそぐことがおろそかになっていたようだった、

祖霊に感謝の祈りをささげ、地元の氏神さまに語りかける余裕もなかったような気がする、

平戸、長﨑とその周辺に、あれだけ至るところに点在する教会群や殉教の地に訪れ手を合わせることもしなかった、

その前面の海を通過して漕いだのに外海をたずねる時間も、浦上天主堂で手を合わせることさえもなかった、

原爆原爆資料館にも行かなかったし、全員そろって平和公園にもいかなかった、
平和公園では係員に大声で注意されるし、駐車場では理不尽なおじさんに怒られる、そこにはアロハはまったくなかった、

平和公園へとつながる、多くの被爆者が水を求めて死んでいった浦上川はヘドロでどこも汚く、カキ殻でどこにも上陸ができず、

挙句の果ては、長﨑に中心地、出島ワーフの船着き場では、それまでヒロシマを舟出して40箇所以上で欠かさず大切にマナを込めてやっていた祈りも献水の儀式もしなかったのだ、皆がうわついて、それにも気づかないほどに先を急いでいた、

目前に迫った被爆地ナガサキまで漕いで 「つなぐ」 ことだけを考えていのだ、

あげくの果てに最後はここまで漕いでつないできたPIlialohaを物のように運び(平戸や佐世保の仲間たちの多大な好意に甘えてしまい)砂浜ではなく出島ワーフのポンツーンボートの上でそそくさと解体してトラックに載せてしまった、そこには祈りもなく、すべての儀式も忘れさられていたのだった、

思い出せば思いだすほど、後悔し、反省することばかりだった、

長﨑は日本が鎖国していた江戸時代、唯一西洋や中国との交流があったので、帆船を停泊させるためにかなり昔から埋め立てと護岸工事が進み長﨑湾内の砂浜はすべてがコンクリートで覆われてしまっている、日本の近代化と西洋化の先駆けの名のもとに造船業と石炭産業の影響を受けて、日本国内のどこよりも早い時代から西洋の産業革命の影響をうけて自然環境破壊がどんどん始まった、

そしてそれは今は世界遺産として観光資源にもなってしまっている、

市内には哀しいことに自然の砂浜がほとんど残っていない、昔から地元の子どもたちが海で遊び、母なる地球の息吹を感じることができる、そんな陸と海のエネルギーが循環するマナにあふれる場所がまったく残っていないのだった、息をしていない哀しい湾なのだ、
日本で一番最初に、人間の欲望と身勝手さで自然を破壊し海をコンクリートで埋め尽くすということをやった場所が長﨑湾なのだ、
  

この長﨑という地、 わたしが生まれ育った土地でもある、

ハワイのホクレア号が平和の象徴の地だからという理由で寄港地に選んだ、

世界で最後に民間人にむけて核爆弾が落とされ、その当時の長﨑の人口の約半分の人たち約10万もの人が数週間のあいだに死亡し行方不明になった哀しい地、だからこそ平和を願う気持ちで私たちは昨年ヒロシマ・ナガサキを漕いでつなぐ、そして同時に海と自然の砂浜で祈りをささげ、母なる地球にアロハ「愛」を伝えることで、傷ついた魂を鎮めるだけでなく、 母なる地球の調和を取り戻す、

そんなことが目的だったはずなのに、いつのまにか冒険かチャレンジのように、「漕いでつなぐ」ことがゴールになってしまっていたのだろう、

昨年の愛と祈りの航海では、長﨑とその周辺地に、しっかりと時間をかけて、祈りを捧げ、地元の人たちとじっくり交流することをしなかった、

マラマホヌア「地球をいたわりい愛くしむ」体験ヴァアもやらなかった、
やるべき大切なことができないでいた、ということに気づかされた、

そして、この長﨑とその周辺は、切支丹時代、南蛮船が頻繁に来航していたこともあり、白人社会のヨーロッパ文化の魂ともいえるキリスト教とまともにぶつかった地でもある、唯一無二のヤハウエ(神)を信じる祈りと念のエネルギーで、各地にたくさんの美しい教会が建てられたのだった、その信仰と祈りのエネルギーは今もこの地に残っているだけでなく、
徳川幕府による禁教令により多くの切支丹(キリシタン)たちは迫害され殉教し、無惨にはりつけになったり拷問を受けた、多くの苦しみと多くの血とが大地に海に無惨にも流された、

私たちのPilialoha を今置かせていただいてる鹿島浜の隣の根獅子(ねしこ)の浜も、まさに殉教の地で、多くに切支丹たちが拷問にあい処刑された場所なのだ、

そしてそんな厳しい迫害から隠れるように島々に逃げ、山奥に潜伏していったのだ、250年間ものあいだ人目をはばかりながら漁民たちや農民たちは祖父伝来の信仰をつづけてきたという歴史が残っている(潜伏キリシタン)
五島列島、生月など、東シナ海のうかぶ島々に手漕ぎに舟で逃げる途中にどれだけの命が自由をもとめながら海の藻屑となり消えていったか計り知れない、その浮かばれない魂は癒やされることなく、自由な世界へ解放されないまま今でもで海にさまよいうごめいてるのだった、

そんな文化的、信仰的背景を色濃くもっている美しくも古い街を、、、、
そしてやがてあの  ピカドン  (原爆)に燃えた街を、、、

昨年のヒロシマからの航海のゴール地点としただけで、

私たちはやり残していることがまだたくさんある、

長﨑での愛と祈りの航海、海に愛を伝えるように撫でることを今年しっかりとやるべきだと思うのだ、

一人でも多くに長﨑の人たちと交流し、子どもたちをPilialoha に乗せるべきだと思うのだ、
  

ちっぽけなわたしたち人間の自由と平和へのみちのりのためのできることは

祈り
海を撫でるように漕ぐこと、
それも6人が調和して、
ひとつになって

人間が人間の自由をうばった悲しみの歴史がふかーくのこるこの地

だからこそ私たちはあの場所を漕いで祈りを続けるのだ、

人間がつくったものではなく、神様がつくった
海と自然の砂浜で祈りをささげたい、

爆心地にあった浦上天主堂(覇権国でありキリスト教国アメリカの圧力である時に新しく建て替えられてしまったけども)

人間がこんなふうにしてしまった景色の中に建つ神に祈る場所、がたくさん
残る長﨑という地



弱き人たちは 祈るしかなかった、救いをもとめるしかなかった、
なにか大きなそんざいを信じるしかなかった、

神(おおいなるそんざい)がつくった海をただただ漕ぐ
海を撫でるようにこぐことに祈りの原点がある、真理をあたえられる、

平和への道

漕ぐことは祈り、

長﨑の海を漕ぐことは、失われてしまった今はもうない神がおつくりもうした自然へ「ごめんなさい、ありがとう」と祈ることでもあるのだとわたしは思います、

とりとめもなく書きつづったけども、最後まで読んでくれてありがとう、

このナガサキの自然を目覚めさせる、そんな航海には子どもたちの純粋な魂と笑顔が不可欠です、だからこそ、昨年のヒロシマでの活動がそうだったように、今年も子どもたちが春休みの時期に集中して約2週間かけて愛と祈りの航海を平戸、長﨑、間で丁寧にやろうと思う、

今年の春休みは、(3月20日〜4月4日)期間中には、なるべく多くの自然の砂浜に上陸し祈りをささげ、そしてマラマホーヌア(地球をいたわり愛くしむ)体験ヴァアをなるべく多くの砂浜でやる計画です、

スケジュールは後ほどホームページ、インスタ、FBで発表します、

もしも長﨑在住の方で、この砂浜でやってほしいと言うのがありましたら、ぜひリクエストください、

クルーとして、またはサポーターとして参加したい人は気軽に連絡ください、

HP https://www.paddleformotherearth.com/2020-voyagingのページ下にあるフォームから問い合わせください、

そして、今年2025年、原爆投下から80周年のヒロシマ・ナガサキを漕いでつなぐ愛と祈りの航海のことは、春休み期間中の平戸からナガサキまでの航海が終わり、昨年やるべきだったことを完結させてから、その時に大きな導きとクレアナを感じたら、あらたにまた計画を立て直してすすめていこうと思う、

「わたしたしにいま必要なボヤージングを与えてください」

「私たちを平和の道具にしてください」

どうか、

「かみさまのこえをきかせてください」と心でいつも祈っています


爆心地にたつ浦上天主堂
今はもうこの神々しいすがたをみることはできない

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