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雑記帳49:暴力性

 10/20の心理臨床セミナーのレクチャーで「暴力性」ということがとりあげられた。以前のブログでも登場したことがある。筆者自身も時折使用する表現だ。

 心理臨床はクライエントに対する支援だから、それが「暴力性」につながりうることを考えると平穏な気持ちではいられない。
 でも、それはとても身近なことでもある。
 
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 最初に「暴力」という言葉に出会った明確な記憶は、レヴィナスだと思う。なかなかショッキングな体験だった。

〈他〉と関係を結びつつも,ただちにこの〈他〉からその他性を奪わない

出典を見失いました

 レヴィナスは自らの枠組みに吸収する形で他者を理解することを、他者を従属させる暴力であると指摘したのだった。

 病名や障害名、何らかの特徴や傾向に関する概念でクライエントを論じることは、それが個別性を抹殺する時、暴力となる。余談だが、ヤ●ザの世界では、反逆する者や敵対する者に暴力で制裁を加えることを「型にはめる」というらしい。

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 インフォームド・コンセントは、臨床心理学の教科書にもよく出てくる言葉である。インフォームド・コンセントのそもそもの目的は、医療におけるパターナリズム(父権主義)の害を排し、患者の権利を保障することである。しかし、実際には、専門家が提供するものに従属し、文句を言わない(言っても無効とする)ことを約束させる手続きになっているとも言われる。とすれば、それもある種、暴力的と言えるだろう。

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 私たちはしばしば、「心の闇」を明らかにしようとする。防衛や抵抗に挑み、解釈によって無意識を明らかにするといった介入がそうだが、これが「暴く」ために行われる限り、暴力性はゼロにできない。
 というか、そもそも、「心の闇」は暴かれねばならないのだろうか。

 あの本で重要だと思ったのは「心の闇」が必要だという指摘です。例として取り上げられていたのは、一九九七年の神戸連続児童殺傷事件、いわゆる「酒鬼薔薇事件」です。評論家たちは犯人の少年の「心の闇」について語った。でも、むしろ「少年は、残念ながら心の闇をつくり損なった」のであって、自らの「苛烈な欲望」をその闇にしっかりと繋ぎ止めておかねばならなかった。
 きちんと「心の闇」を作ることが大事なのに、それがいままさしく「蒸発」してしまっている。
 あるいは、いたるところにダダ漏れになっている。

國分功一郎・千葉雅也 「言語が消滅する前に」 幻冬舎新書
※「あの本」とは、立木康介「露出せよ、と現代文明はいう」河出書房新社 のこと

 暴力性は私たちに影のようにつきまとっていて、容易く現前するのだ。
 おそらく問題は、私たちがそのことにどれほど敏感でいられるかどうかだ。

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 映画「バケモノの子」(細田守監督作品)は「心の闇」についての物語だ。人間はひ弱なので「心の闇」をもつ。それは他の生き物からすれば油断ならないものだが、反面、人間を特徴づけるものでもある。その「心の闇」は、傷つきと孤独を引き金として暴れ出す。つなぎとめられなくなった「心の闇」のもつ暴力性はとてつもない。そのとき頼みにできるのは、「みんな闇を持っている、私も」と念じながら共にある他者だ。

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 おそらく「高度な専門性」と言われるものを、科学、技術、制度、論理と捉えてひた走る時、関与はどんどん人工的なものとなり、生身の心との摩擦係数が高くなる。その時生まれる火花が秘められた暴力性に引火するのだろう。もっと、自然であること、素朴さ、愚直さを踏まえながら「自分の専門性」を磨くことを大切にしたいと考えている。(W)

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