本記事では、後北条氏が相模国から関東へ勇躍した背景を「坂東」という地域特性から少し考えてみたいと思います。
■相模国の特長(ウィキ要約)
(1)相模国の主なエリア
・相武国造(さがむ:相模川流域、県中央部)
・師長国造(しなが:酒匂川流域、中村川流域、県西部)
・鎌倉別(かまくらわけ:鎌倉地域、三浦地域)
(2)地域分割
相模国は9つの郡に分かれます。
【足柄上・足柄下・餘綾・大住・愛甲・津久井・高座・鎌倉・御浦】
後北条氏の治世においては、相模国を西郡(足柄上郡・足柄下郡)、中郡(餘綾郡・大住郡・愛甲郡)、東郡(高座郡・鎌倉郡)に分けて統治されていたようです。
(3)主な国人
鎌倉時代初期の頃、佐伯経範が秦野に移り住んで波多野氏を名乗りました。
その後に支流として、松田氏・渋沢氏・河村氏・栢山氏・大友氏・沼田氏などが興こりました。
足柄上郡:松田氏(後北条氏の重臣)、大友氏
足柄下郡:大森氏(小田原城の旧主)、曾我氏 ※風間氏もあったとされる説あり
■小田原の特長(ウィキ要約)
①古代
小田原の「中里遺跡」は、先史時代における大規模な集落跡です。縄文人と渡来人が共存共栄した痕跡があり、大変貴重であり、
暮らしやすい立地だったという証拠の一つと考えられます。
地名について古い記録では「こゆるぎ(小由留木)」といい、のちに「小田原」という地名として定着したという説があるようです。
②中世
先述の波多野氏は一族の居館として「田原」に波多野城を築き、その支城として「小田原」が設置されたという説もあるそうです。
平安時代末期、小田原の南西を流れる酒匂川のほとりで源頼朝と平家方において「石橋山の戦い」が行われました。(小田原にもいずれかの武将の陣がおかれていたかも?)
③戦国時代
関東では「永享の乱(1438~1439)」「享徳の乱(1455~1483)」などの騒乱が相次ぎ、いよいよ室町幕府の統治の及ばない状態となりました。
すなわち古河公方(足利氏)、関東管領・上杉氏、佐竹氏、宇都宮氏などの諸氏による群雄割拠の時代です。
■武士の源流(ウィキ要約)
武士の興りは、第50代桓武天皇・第52代嵯峨天皇の皇統よりそれぞれ分派した平氏・源氏からです。その後、平安時代の「滝口の武者(9世紀頃)」「北面の武士(11世紀頃)」「西面の武士(13世紀頃)」を経て、「京武者」「軍事貴族」となっていた流れがあります。
同時に在京ではない平氏・源氏から分派した庶氏が地方で「在地領主」および「荘園管理者」として着実に力を持ちます。
■坂東八平氏(ウィキ要約)
「坂東」とは、関東地方の古称です。もともとは大和朝廷のあった畿内から東側は「東国」と呼ばれ、さらに足柄峠・碓氷峠などの山(坂)より東側が「坂東」とされました。
「平氏」とは、高望王(桓武天皇の子)の系譜を引くと称する一族です。9世紀末に上総介として下向して土着し、坂東の豪族となり「桓武平氏」と呼ばれます。
『太平記』などの軍記物に「坂東八平氏」と「武蔵七党」が併記され、『貞丈雑記』などでは上総、千葉、三浦、土肥、秩父、大庭、梶原、長尾の「八氏」があげられています。
なお、『貞丈雑記』の八氏は、高望王の子のうち、誰の子孫であるか諸説があり、平氏系図に混乱があるため確証がないのが現状のようです。
■坂東武者(ウィキ要約)
「坂東八平氏」とならび、平安時代末期から室町時代初期に武蔵国を中心に分布していた中小武士団を「武蔵七党」と称されます。
丹治、私市、児玉、猪俣、日奉、横山、村山の七つの「党(同族的武士団)」をさすことが定説で、「坂東武者」とも呼ばれます。
9世紀末から10世紀にかけての東国は、群盗があふれ、商業運送に携わる人々の反乱が相次ぎ、馬を自由に乗りこなす人々が現れていたと記録されています。
彼らは、朝廷に献上する馬を飼育・管理する「牧」の管理者でもありました。主な牧場は秩父牧、小野牧、阿久原牧などです。「騎馬武者」のイメージはここからきているのかも知れませんね。
10世紀なかば、朝廷は、これら有力者を群盗に備える「軍事組織」としても整備していきました。彼らは現地で田畑開墾を進め、「在地領主」として次第に専業武士となっていきました。
鎌倉時代の初めに源頼朝に従った中小武士団は、ほとんどが武蔵国の独立武士団で、これがのちの「坂東武者」の原形と考えられます。
独立武士団を束ねる在地領主は、鎌倉幕府成立後、御家人や北条氏の御内人となる者もいました。
■関東八屋形(ウィキより要約)
関東八屋形(かんとうはちやかた)は、室町時代の関東において、第三代鎌倉公方・足利満兼が就任するに際し、公方を補佐する関東管領・上杉朝宗の提案による「屋形号」を称する事が許された有力大名をさします。
具体的には、以下の大名が八家となります。
【宇都宮氏、小田氏、小山氏、佐竹氏、千葉氏、長沼氏、那須氏、結城氏】
いずれも旧来の名族であり、これら八家は鎌倉公方を支える守護を出す家柄として定められ、自家の領土内における強力な支配権も与えられました。
後に関東八屋形の支配権は鎌倉公方の介入も容易には許さないほどになり、関東騒乱の要因となったと想像します。
この騒乱の隙をついて後北条氏が関東に勢力を拡大する中で、扇谷上杉氏・山内上杉氏と衝突や同盟を繰り返しながら支配体制を構築していくのです。
関東の特殊性について、こちらの記事もお時間あればご覧ください☆
■二代当主・氏綱が「酒吞童子絵巻」の製作を指示した意味
(1)伝承の経緯
「酒呑童子」のお伽話を「絵巻」または「絵詞」にした資料は複数現存しています。歴史の教科書でも狩野派の作品の一つとして取り上げられています。
そのうち、「サントリー本」として現在はサントリー美術館に収蔵されている「酒天童子絵巻(三巻)」があります。
これは、後北条氏が所蔵していたもので、五代当主・氏直が豊臣秀吉に処断された際、氏直から離縁された督姫(徳川家康の娘)に預けられました。
のちに督姫が池田輝政のもとへ再嫁する際に持参し、因州池田家(鳥取藩)に伝来したのです。
(2)酒天童子絵巻とは
https://www.suntory.co.jp/sma/collection/data/detail?id=626
デジタルアーカイブとして閲覧できます。
兵庫県立歴史博物館
デジタルアーカイブとして閲覧できます。
(3)登場人物と「坂東」の関係性
「酒吞童子絵巻」のベースとなった『大江山絵詞』で描かれるのは、①源頼光と家来の②四天王(平貞道・平季武・坂田公時・渡辺綱)が鬼神・酒天童子を退治する物語です。
①源頼光(948~1021)
頼光は藤原道長(966~1028)と時代を同じくする平安時代中期に活躍した「京武者」「軍事貴族」であり、源氏三代(摂津源氏)の棟梁です。
頼光は道長に仕えて京で名声を高め、弟・頼信(968~1048)が上野介として上野国などで活躍しました。中でも有名なのは甲斐守在任時に「平忠常の乱」(1031))を鎮圧したことです。
また乱の後、坂東武者(平氏、秀郷流藤原氏など)は源氏と主従関係を強めていく中で、頼信の嫡男・頼義(988~1075)が平直方(生没不明 高望王から5代目)の娘と婚姻します。直方は坂東平氏の嫡流であり、のちに北条氏・熊谷氏らの先祖になったといわれます。
②頼光四天王
『今昔物語集(1120年代以降の成立)』において、渡辺綱を除く三名(平貞光・平季武・坂田公時)は、「東(=坂東)」で活躍していたことが評価され、源頼光を警護する郎党に採用されたそうです。
これは、暗に三名(平貞光・平季武・坂田公時)が坂東の「兵(つわもの)」である事を示します。
平貞光(碓井貞光 954~1021)は生まれが相模国碓氷峠付近とされ、のちに三浦氏・鎌倉氏らの先祖になったといわれます。
平季武(坂上季武 950~1022)は坂上田村麻呂を祖とする坂上一族とされます。坂上田村麻呂は桓武天皇(平氏の祖)の忠臣であり、二度にわたり征夷大将軍を勤めた「武士の祖」でもあります。
坂田公時(956?~1012?)は生まれが駿河国と相模国の国境である足柄峠とされ、20歳の頃に頼光の家来となった際、「坂田金時」と改名したといわれます。「金太郎」のモデルになった人物でもあります。
また、渡辺綱(953~1025)は武蔵国で生まれ、父は武蔵権介だった源宛です。 綱が生まれた時に宛は他界していたため、母方の縁で摂津国西成郡渡辺で育ち、渡辺綱と称します。のちの渡辺氏の先祖になったといわれます。
(4)「酒吞童子絵巻」の意味
「酒吞童子絵巻」は、後北条氏の二代当主・氏綱の発注によって1522年頃に狩野派の作品として生まれました。
なぜ氏綱は「酒吞童子絵巻」を作らせたのでしょうか?
1つ目は、氏綱が鶴岡八幡宮をはじめ、寒川神社宝殿・箱根三所大権現宝殿・相模六所宮・伊豆山権現などの再建といった寺社造営事業を盛んに行って「文化興隆」に力をいれていました。これらは、武家の聖地たる鎌倉の荒廃を憂いていた早雲の悲願でもあったようです。
また再建にあたっては、高僧・工匠・商人など著名な文化人との打合せや交流もあったと思われるので、「酒吞童子絵巻」を披露して芸術話に花を咲かせていたのかも知れません。そして、後北条氏の「文化性の高さ」をアピールしたかったのではないでしょうか。
2つ目は、相模を安定させるためにも「坂東八平氏」(武蔵・上総・下総)を糾合することが氏綱の使命だったと考えると、「支配力」に「名声」を追いつかせるため、「平氏嫡流」をアピールする必要がありました。
「酒吞童子絵巻」は、平安の御伽噺から源平が「坂東」を治めたことを思い出させ、兵(つわもの)としての「平氏」を語らせるのに最も適していたのではないでしょうか。また、それを所有していることで「平氏嫡流」を暗示できるわけです。このように、氏綱は後北条氏の「正統性」を示したかったのではないでしょうか。
上図の年表にもあるように、氏綱は1541年に没しますが、この頃には戦国大名の代表格である今川義元・武田信玄・上杉謙信は青年期を迎えています。三代・氏康は彼らと刃を交えることになります。
本記事の投稿により、30ヶ月連続投稿となりました〜(^o^)vイエーイ
参考になったnoterさんの記事
最後までお読みいただきありがとうございました☆
トップ画面のイラストは、AKISENさんの作品です♫
#つぶやき #小田原城 #後北条氏 #関東 #坂東