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「奥の枝道 其の四 京都・幕末編 レキジョークル」感想



  

noteで活躍されている千世さんの著作「奥の枝道 其の四 京都・幕末編 レキジョークル」の感想です。




前作「其の三 山口・萩編」
も面白かったです(^o^)v



奥の枝道 其の四 京都・幕末編 感想

●14ページ
大きな役割を果たした雄藩とは


各党のロゴマーク りすさんXポストより引用
@senkyo_election

今の与野党を幕末に例えるとこんな感じでしょうか?
与党(幕府)
野党(雄藩=薩長土肥)

●雄藩の政党置き換え例

【幕府(自民党)・親藩(公明党)】
→会津藩は現れるのか?(公明党?)
→将軍就任前は聡明で期待されてたけどイマイチなリーダー慶喜(石破総理)

【薩摩藩】
→野田どんが率いる立憲民主党
→衆参ともに野党第一党

【長州藩】
→名前のままだけど日本維新の会
→革命児である前原さん合流で先鋭化?

【土佐藩】
→れいわ新選組+共産党等
→政策は明確だが掴みどころがない?

【肥前藩】
→急拡大した国民民主党
→独自性で勝負(アームストロング砲、反射炉→103万円の壁?)

【その他】
亀山社中・坂本龍馬
→都議選新党「再生の道」・石丸伸二さん?


●今後の予想
2024年衆院選結果(与党過半数割れ)を幕末の転換期(1867年大政奉還)になぞらえた場合、このまま2025東京都議選(1868年王政復古の大号令)も野党有利で進んだと仮定します。
2025参院選は正に「1868年鳥羽・伏見の戦い」のような自民党敗戦による政局逆転のターニングポイントになる可能性が高いと思いました。「鳥羽・伏見の戦い」について、後半にコメントしてます☆


●81ページ 
江戸時代の平均身長

びっくりするほど平均が低い。
幕藩体制や都市機能、米経済、農村機能は整備されて食品流通も確立していたはずなのに不思議です。(●127ページの千世さんコメントもご参照)

●119ページ
二条城の豪華さ

二条城は、初代・家康の江戸幕府の始まりから、15代・慶喜による「大政奉還」を含め、歴史の重要スポットですね。

信長や秀吉も朝廷を監視する拠点を作っていましたが、なぜ今の場所(御所の南西)なのでしょうか。

また、築城時は大坂城に豊臣秀頼、西国大名も多数いたのに、真田丸のような「方円」ではなく「方形単郭式(四角)」の「平城」にした事が疑問に思いました。

参考リンク
【二条城の歴史 | 二条城のガイド - 攻城団】https://kojodan.jp/castle/13/memo/3491.html


場所について調べてみると、御所の鬼門(北東)を護る比叡山延暦寺と対になるように、裏鬼門(南西)を護る意味があるようです。

※鬼門の次に重要なのが裏鬼門
※石清水八幡宮が裏鬼門を護っている説もあり
※北極星ではなく方位磁石などでの設計により御所に対して約3度のズレ?


縄張りは築城三大名人の一人、藤堂高虎(当時は秀長は没しており家康方に付く)が立案しました。

二条城の外側を守る堀は「石垣づくり」で強固に造られています。その上には櫓が廻らされていて防御力の高さが覗えます。
現在ある西門、南門は後世に設置されたもので、北大手門と東大手門だけでした。ここからも、南西側や南側からの侵攻に備えていた事がわかります。

「洛中洛外図屏風」によると、壮麗な望楼型天守が北西隅に立ち、御所を見下ろすような配置だったそうです。後年、家光が南西(現在、天守跡の位置)に移築したとのこと。

また、御所周辺は、城や砦はありませんが、広大な敷地を持つ寺院が多数あり、市街戦の時に防衛拠点の役割を果たします。更には京は山に囲まれた盆地なので、幾つかの街道口を固めれば要塞都市に成り得ます。
詳しくは、次の「二条城の考察」「鳥羽・伏見の戦い 考察」にてまとめました!


●133ページ
池田家

歴史ファンとしては別の意味で、池田家事件です(笑)
これは、私も修学旅行の時、現地で見てショックでした。
観光資源にもなり得る建物(城・神社・仏閣・〇〇生家)などの文化財保護は、しっかり予算をつけて管理すべきですよね。

前作「其の三」感想でもコメントしましたが、観光資源の保護は、観光税やクラウドファンディングなどで原資が作れるとよいと思います。後継者に悩む地域の場合は、交換留学で外国寺社や文化施設との交流や人員のサポートがあってもよいのでは。

●287ページ
大山と捨松がフランス語で交流

小さい頃、東北地方の叔父さんに話しかけられても、方言がわからなっかたので、取り敢えず笑顔を心がけた記憶があります。共通言語は大事ですね。

「共通言語」といえば、エジソンが二人目の妻となるマイナ・ミラーに求婚する時、モールス信号を使ったそうです。


理系ならではのエピソードです(笑)
自分達だけの共通言語や秘密の暗号を使うのも、恋愛の醍醐味ですね。


●198ページ
本能寺の変

最近の研究で「怨嗟説」はほぼ否定され、光秀以外にも共謀者がいる説が強くなっている気がします。信長が死んで、一番得をする織田家宿老は誰か。光秀を討つ口実として「裏切者」とするのが、秀吉には好都合で、それを誰が献策したのか。新たな資料が発見されることを待ちたいと思います。




二条城の考察


ここからは、幕末の重要スポットである二条城について私なりに妄想を膨らませて、西国からの侵攻を想定した「防衛プラン」等を考えてみました。

ただし、関ケ原の戦いように徐々に両軍が睨みあうというよりは、「鳥羽・伏見の戦い」のように急戦だったという前提です。

①南西部(赤色ライン)
大坂から攻め上がる軍勢の正面になる。

桂川(桂離宮あたり)から鴨川合流点あたりまでに防衛線を構築、適当な小山が無いので「東寺」を砦にする。南側の山崎エリアには「勝竜寺城」「淀城」「伏見桃山城」があるので、籠城しつつ侵攻軍を挟撃する。

②西部(青色ライン)
仁和寺から桂川を結ぶ「162号線」に沿って防衛線を構築、「仁和寺」または小山になっている「双が丘(古墳あり)」を砦にする。西国からの援軍と侵攻軍を挟撃する。

③北西部(黄色ライン)
金閣寺から鴨川を結ぶ「北大路」に沿って防衛線を構築、真ん中にある「徳大寺」または小山になっている「船岡山(城跡あり)」を砦にする。狭い地域なので敵陣を迂回して回り込むことができないため、増援部隊で食い止めつつ持久戦に持ち込む。北国からの援軍を待って侵攻軍を挟撃する。


鳥羽・伏見の戦い 考察


鳥羽伏見の戦い 1/5開始時 -
左大臣さんサイト  より引用


鳥羽伏見の戦い -1/6終了時
左大臣さんサイト  より引用




鳥羽伏見の戦い 歴史まとめ.netさんサイトより引用



二条城から妄想する「京都防衛プラン」を考えていく中で、「これは幕末の新政府軍も同じような視点で考えていたのかも」と気づきました。


戊辰戦争の始まりともいえる「鳥羽・伏見の戦い」の概要をwikiで確認して驚いた事があります。

一般的には「旧幕府軍の大敗」「徳川慶喜の大坂城逃亡」による「新政府軍の大勝利」というイメージです。

参考サイトをいくつか読みましたが、イマイチ腑に落ちません。




しかし、記録上の損害(死者)は、旧幕府軍 約280人・新政府軍 約110 人となっています。

少なくない人数ですが、私は、おや?と思いました。

映画などでは、旧幕府軍の勇猛な白兵突撃が、近代装備に優れた新政府軍の一斉射撃によって撃退される、、、、

各地の戦闘の様子でも小銃・大砲による激しい砲撃戦で新選組をはじめ、旧幕府軍の各部隊は次々に壊滅、、、、


ところが、参加兵力は旧幕府軍 約10,000人(大坂城に後詰め約5,000人)・新政府軍 約5,000 人です。

参加兵力を分母とした死者損害による損耗率ですと、旧幕府軍 約280人(1.87%)・新政府軍 約110 人(2.2%)となっています。


現代の軍隊において兵士が30%程度損耗すると、その部隊は「全滅(戦闘不能)」となり、補充兵を編入して戦力増強するか、後備部隊となります。

もし、50%程度損耗となると全滅よりもひどい「壊滅(再編不可)」となり、指揮系統は崩壊しているため、上級部隊に吸収されるため部隊が消滅します。


こう見ると、「旧幕府軍の大敗」には、当てはまらないと思いました。

また、両軍の負傷者が死者の3倍いたと仮定して試算してみました。


【試算1】
旧幕府軍 約280人→約840人 = 死傷者合計 1,120人(損耗率7.5%)

新政府軍 約110 人→約330人 = 死傷者合計 440人(損耗率8.8%)



さらに、両軍には後詰め(増援部隊)もいたはずです。周辺諸藩は幕府・朝廷それぞれから出兵を命じられましたが、見合せていたので戦況が分かれば他藩部隊が合流してくる可能性もあったはずです。

上記【試算1】の死傷者を引いた残存兵力と、増援兵力の見込みを大まかに考えてみました。


【試算2】
旧幕府軍 残存13,880人 増援5,000人? 他藩合流3,000人?

新政府軍 残存4,560人  増援3,000人? 他藩合流1,000人?



旧幕府軍は幕府陸軍、会津藩、桑名藩の兵士で構成されていました。江戸の警備や根拠地が遠いため、増援5,000人は実質無理だと思います。ただ、史実だと離反した藩が合流して来れば、3倍の兵力差は維持できるので、新政府軍を二条城まで押し返す事は可能性だったのではないでしょうか。

新政府軍は少なからず増援部隊は来たと思いますが、元々兵力が少ないため苦戦が予想されます。また、この時点では勝敗が明確では無い、他藩部隊も一気に合流して来ない、というのが私の予想です。

逆に3倍の兵力差がありながら、「徳川慶喜の大坂城逃亡」によって旧幕府軍が総崩れになったのは理解できました。


旧幕府軍の勝利の可能性を調べるため、「鳥羽・伏見の戦い」について、マイクロソフトAI(copilot.cloud.microsoft )にも質問してみました(^o^)v


【質問1】徳川慶喜は鳥羽・伏見の戦いに勝てたか

【回答1】いいえ、徳川慶喜は鳥羽・伏見の戦いに勝つことはできませんでした。鳥羽・伏見の戦いは1868年1月に起こり、これは戊辰戦争の最初の主要な戦闘でした。この戦いで、徳川幕府軍は新政府軍(薩摩藩、長州藩など)に敗北しました。この敗北が徳川幕府の終焉を決定づける重要な出来事となりました。

うーん、、、質問が少しズレていたかもなので、語尾を修正して、再チャレンジ!


【質問2】徳川慶喜が鳥羽・伏見の戦いに勝つには?

【回答2】興味深い質問ですね!歴史の「もしも」を考えるのは面白いです。徳川慶喜が鳥羽・伏見の戦いに勝つためには、いくつかの要因が必要だったかもしれません。

1.軍事力の強化: 幕府軍が新政府軍に対抗できるだけの兵力と装備を持っている必要がありました。
2.戦略的な計画: より効果的な戦略と戦術を用いることで、戦闘の流れを変えることができたかもしれません。
3.同盟の強化: 他の有力な藩との同盟を強化し、新政府軍に対抗するための支援を得ることが重要でした。
4.情報戦の優位: 敵の動きを事前に察知し、適切な対応を取るための情報収集と分析が必要でした。

(補足)もちろん、歴史は多くの要因が絡み合っているため、これらの要素だけで勝利を保証することはできませんが、これらの点が改善されていれば、結果が変わっていた可能性もあります。

なーるほど。

ここからは、私の妄想です。
初戦敗北と『錦の御旗』の件に慶喜が激怒し、戦いを継続したら勝てたのでは?と仮定します。


激怒モードの慶喜


(大坂城広間)
「なんと、、、あれだけ息巻いて、1万余の兵を進めたのに勝てぬのか?情けない!」

「これは徳川と薩長との私戦である。帝の御心を踏みにじり、京でまた戦をするとは、薩長許すまじ!賊臣岩倉も同罪なり」

「将軍職である私にこそ『錦の御旗』は相応しい。すぐに召し上げにいく!!」


幕府陸軍


なお、慶喜はスーパー勤皇派なので、京に攻め込んで市街戦をする事は嫌がったと思うので、包囲戦を展開しつつ、やはり鳥羽あたりにて野戦による決戦をするだろうと思います。

それらを、踏まえて勝利につながる条件を整理してみます。


【勝利条件】

①船はもとより、『早飛脚』でも江戸~大阪は約3日かかるので、江戸から幕府陸軍・海軍の増援は望めないため、現地部隊と周辺諸藩の兵力で戦い、武器なども京周辺や外国部隊から即時調達する。 

②周辺諸藩が新政府軍へ参加するのを防ぐため、1/5から1週間以内に新政府軍と再戦する。

③慶喜率いる幕府陸軍にて新政府軍の主力を撃破し、二条城ならびに錦の御旗を奪取する。


【戦術】

●補充する銃砲は幕府陸軍に集中させる。

●新政府軍の主力を南部(鳥羽)に引き付けたまま、諸藩連合部隊によって京の北部・東部・西部に布陣して包囲網を形成する。

●新選組、京都見廻組、一部の陸軍部隊を意図的に新政府軍へ寝返らせ、慶喜本陣が手薄であるため全軍突撃を誘う。

(1)鶴翼陣形のように広く構え、騎馬隊を最端に配置しつつ、後方撹乱で新政府軍を前進させる。

(2)弾切れを偽装するため砲撃はせず、慶喜本陣からは小銃による反撃に留める。

(3)新政府軍の側面攻撃は幕府陸軍の小部隊による精密射撃に留め、前進させる。

(4)慶喜本陣に金扇(馬印)を掲げ、新政府軍の突撃を誘う。同時に騎馬隊が本陣後方に戻る。

(5)新政府軍が突撃を開始したら、正面および側面からの反撃は制圧射撃に切り替える。

(6)新政府軍を慶喜本陣に引きつけたら、騎馬隊を中心に突撃(逆さ魚鱗)して蹴散らす。


【再戦のシミュレーション】

1/5夜
●京都周辺の諸藩に討伐軍召集を指示

●大阪湾の開陽丸から大砲一部を接収して臨時砲兵小隊の編成を指示

●山崎・楠葉台場の部隊を鳥羽前線へ移動

●英仏露米から小銃・軍艦搭載砲を購入交渉

●江戸から海軍出撃、部隊・物資の輸送を指示

●淀城を本営とし慶喜が入城、後詰5,000人で陣地を強化


1/6
●新政府軍が南下してくるが火戦による反撃に留める

●諸藩連合部隊(西国)1,000人が到着、仁和寺・双ヶ丘に布陣

●諸藩連合部隊(東国)1,000人が大津を攻略

●幕府陸軍、桑名藩、会津藩や諸部隊の再編制(魚鱗→鶴翼)

●小銃・弓で武装した臨時騎馬隊(後方浸透、補給遮断)を編成

●宇治川に臨時架橋を複数設置


1/7
●諸藩連合部隊(北国)1,000人が到着、上賀茂神社・御生山に布陣

●諸藩連合部隊(東国)が東福寺の前面に布陣

●諸外国と大阪湾の開陽丸から小銃・大砲が到着、幕府陸軍にて臨時砲兵小隊を編成


1/8
●幕府陸軍を中心に鳥羽方面から総攻撃開始、臨時騎馬隊が新政府軍の後方撹乱、夕方に包囲

●諸藩連合部隊(北国・西国)が前進、新政府軍と小規模な市街戦

●諸藩連合部隊(東国)が東福寺を包囲、小規模な市街戦


1/9
●南部から再度総攻撃を開始し、新政府軍主力部隊が降伏。錦の御旗を奪取

●北部・西部の新政府軍が二条城に撤退

●諸藩連合部隊(東国)が東福寺を攻略。新政府軍が二条城に撤退


1/10
●旧幕府軍と諸藩連合部隊が二条城を包囲

●二条城の新政府軍に降伏勧告

●徳川慶喜から薩長首脳、岩倉具視に出頭命令


1/11
●旧幕府軍、二条城を攻略。新政府軍は降伏

●朝廷に徳川討伐勅諭を撤回させ、薩長土肥討伐の勅諭を貰う

●薩長首脳、岩倉具視から官位剥奪、京を追放


もう少し詳しく解説しないと、逆転の可能性は伝わらないと思いますが、長くなり過ぎるので、以上とさせて頂きます(笑)


トップ画面はAKISENさんの作品です♫



最後までお読みいただきありがとうございました☆


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つのだこうじ
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