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向こうから来る音 映画『なみのおと』

※この文章は映画公開直後の2011年に書いたものです。かなり長いです(約12,000字)。

映画の命令と不自由

映画『なみのおと』(2011)のファーストカットは、砂浜である。いくつかのゴツゴツとした岩。固定されたカメラは、波の動きをとらえている。静かなさざ波が寄せては返し、やがてそれは一度大きくうねって、小さな岩場はまるごと波に飲み込まれる。その映像は否応なく、東日本大震災で町を襲った大津波を思い起こさせる。

これは、わざわざ撮らなければ映らない映像だ。
まず、さざ波が来ただけでは飲み込まれないが大きめの波が来れば飲み込まれるような岩場を探し出し、適切な位置にカメラを置いてフレームを確定する。そして、録画ボタンを押したうえで実際に波がくるまで待って、よきタイミングでそれが映るように、編集で前後の余計な部分を削除する。そのような工程を経たうえで、初めてスクリーンに観られるのがこのカットであり、たまたま映ってしまった、などということはあり得ない。
ここには、何かを撮ろうという明確な意志が必要であり、その「明確な意志」を「演出」と呼ぶことも可能だ。

この映画のファーストカットには、波というコントロールし得ない自然現象が、演出されたものとして提示されている。それは「演出された映像を見る」というよりも、「<演出されたもの>としての映像」を見る経験に近い。
映画は、冒頭部分のうちに早々と、これがいわゆるドキュメンタリーではないということを、半ば強制的に同意させてしまう。
それは「見る人それぞれが自由に感じること」など許しはしない。あえてネガティブに響く言葉を選ぶなら、それは一種の「命令」である。そして『なみのおと』は全篇にわたって、他に類を見ないほどに命令で満たされた映画なのだ。

映画は、震災で津波の被害にあった人々が、姉妹や夫婦同士、あるいは二人の監督と対話する、一種の会話劇である。その対話は向き合う二人を横位置から捉えたショットではじまり、やがてほとんどが正面の切り返しで構成されるようになる。この切り返しこそが、この映画の、最も強固な命令だ。

正面の切り返しが、およそドキュメンタリー映画(あるいはニュース映像)に不釣合いなものであるのは言うまでもないだろう。この画面を撮るためには二人の人物の間にカメラが割り込んでいなければならず、それはつまり、人物たちが見ている実際のものはカメラのレンズでしかあり得ないということを意味する。
撮影現場では、二人は見つめ合うことができない。個別に撮られたそれぞれの瞳を交互に編集で繋いで見せることで、そこに視線が存在しているかのような錯覚を観客が与えられているだけなのだ。
そのためドキュメンタリーと呼ばれる映像においては、切り返しという手法がある種の禁じ手になってしまう。それが「嘘」であることが、あまりにも自明だからである。

『なみのおと』(2011)
『なみのおと』(2011)

映画評論家・蓮實重彦は、『監督 小津安二郎』の中で次のように述べている。

「瞳を鮮明なイメージとして画面に定着しえながら、視線は絶対に撮ることができないという点に、映画がかかえこんだ最大の逆説がある。(中略)見ることとは、映画にあっては、納得すべきことがらであり、視覚的な対象ではないのだ」

蓮實重彦『監督 小津安二郎』(P.132)

視線を「納得すべきことがら」=物語として了解する時、しかし実際には見つめ合っていないがゆえに、余りにもまっすぐ堂々と眼差すその瞳は、やはりどこか不自然なものだ。

「人は、とりわけわれわれ日本人は、その日常生活にあって、小津安二郎の映画におけるほどの頻度と執拗さをもって他人の瞳をのぞきこみはしない。(中略)小津の視線は無遠慮なものであり、こうした瞳に囲まれて生きることはできまいし、またそのことを、小津自身も充分に意識していたはずである。だから、こうした瞳が、あくまで捏造された虚構にすぎないことをまず確認しよう」

蓮實重彦『監督 小津安二郎』(P.134)

「小津的な見つめあいは、おそらく、その虚構性そのものによって、正視する瞳は描けても、視線を画面に定着させえないという映画の限界を露呈させ、にもかかわらず二人の人間が視線を交錯させあっているような印象を安易に助長させる表現手段としての、あの編集という技法の虚構をあばきたてているのだ。映画を撮るとは、いくつもの不自由を背負い込むことにほかならない。そしてその不自由を、ごく些細な手段にうったえて自由だと錯覚するような作家や観客たちに向って、その錯覚を晴らすべく、小津は、あの不自然で無遠慮な瞳を向けているのだ」

蓮實重彦『監督 小津安二郎』(P.135)

『なみのおと』の瞳もまた、「捏造された虚構」にすぎない。そして小津と同じように正面の切り返しで人々の視線を捉え、「虚構をあばきたてて」いる。
それを踏まえれば、先に述べた「命令」とはひとまず、「自由だと錯覚するような作家や観客たちに向って、その錯覚を晴らす」ためのものと言ってしまってよいだろう。

しかし、これはあくまでもひとまずの結論に過ぎない。この映画は、その先にあるどこかをこそ映しとろうとしているはずなのだ。『なみのおと』の命令は、その「どこか」へと観客を導くための「不自由」である。

『鳳鳴(フォンミン)−中国の記憶』との比較

『鳳鳴(フォンミン)−中国の記憶』(2007)は、鳳鳴(フォンミン)という名の一人の老婆の語りをとらえたドキュメンタリー映画である。文化大革命のさなか右派のレッテルを貼られ迫害を受けてきた彼女は、その凄惨な過去をカメラに向かって静かに語り続ける。
場所はアパートの一室。三時間以上もある上映時間はほとんど全て、ソファーに座った彼女の語りを淡々と固定カメラで記録した映像で占められている。

 『鳳鳴(フォンミン)−中国の記憶』(2007)

結論から言えば、『フォンミン』と『なみのおと』は全く逆向きの映画である。ワン・ビン監督においては、命令が可能な限り排除されているのだ。

その理由は三つある。まずひとつは、対話者の存在である。

『なみのおと』では(一部のパートを除いて)二人の人間が、交互に切り返しで映し出され対話をする。その場にカメラがあるとしても、発話者の語りはまず現場にいる対話者に向けられていているものである。
そして対話者は「聞き手」として、その個別の人格において、発話者の語りを変容させていく。相槌を打ち、質問し、会話をする対話者によってそこに生じる語りの変化に、観客の参与はあり得ない。
これは観客自らが語られている対象であるかのような錯覚を(「そうせざるを得ない」という意味で)禁止する、「他者として聞け」という命令である。
観客は、ある他者に向けられた言葉を聞き、ある他者に向けられた(かのように見える)眼差しを身に浴びるのである。

一方『フォンミン』の中で語るのは、ある老婆一人である。対話者は、いない。もちろん実際の現場では監督こそが対話者なのだが、その姿が画面に映ることはないし、撮影していればいくらか会話も交わしたに違いないだろうが、完成された映画では、その部分はカットされている(三時間の間で一度だけ、監督が「明かりを……」という声だけが聴こえる)。
ここでは老婆の語りが、他者の何か具体的な介入によって変容することはない。というより、介入を映さないことによって、そう感じさせている。対話者はあくまで透明な存在であり、観客は、自身がその位置を占めることも、ともすれば(もちろんそれは錯覚なのだが)可能なのではなかろうか。

第二に、画面のサイズの違いがあげられる。

『なみのおと』の切り返しは、すべてのパートに共通して、いわゆるバストショットである。これはクローズアップほどではないにせよ多分に、「顔を見よ」という命令だ。背景の面積を少なくすることで、顔以外に見るべきものがあまりなくなってしまうので、結果的に人物の顔が特権化される。
またこの映画は、例えば会議室のような殺風景な場所を選んで撮影されているために、背景からも「見るべきもの」が排除されており、その命令は一層強固なものとなっている。

『フォンミン』の方はどうかというと、こちらはもっと広い、フルサイズの画面が延々と続く。これは人物の全身を映すサイズのことだが、それにともなって当然、背景の余白も大きくなる。
そこには、老婆が普段生活しているアパートの一室が映っており、椅子やら電子レンジやら壁にかけられたタペストリーやらを見る自由、観ることにおける余白が観客に与えられている。観客には、フォンミンの顔を「見ない自由」があるのである。

最後にあげられるのが、カット割りの違いである。

『なみのおと』は、切り返しが繰り返される映画である。二人の人物が交互に映されるということはつまり、「その都度映ったその人物を見よ」という命令である。
加えてその切り返しは背景を排したバストショットの構図で行われているのであるから、それはおよそ映画が発し得るあらゆる命令のうちでも、最も厳格なもののひとつだろう。

そして『フォンミン』では、前に述べた通りフルサイズで老婆の語りが撮影されており、画面としてはこの同じ構図が延々と続くのだが、もちろんいくつかのカットがつながれている。
その間のつなぐ際に用いられているのが、いわゆるオーバーラップという手法である。二つのカットを緩やかに重ねて繋ぐことで断絶をなくす、つまり、まるでカットなど割れていないかのようにカットを割るのがこの手法である。
そもそもカットを割ること自体が「次はこれを見よ」という命令であるわけだが、このオーバーラップにはその命令への観客の意識を最小限にとどめる効果がある。

『なみのおと』と『フォンミン』、この二本の映画が、単にその画面を見ただけでも全く逆の方向を向いていることが、ひとまずは確認できたかと思う。
しかしここでもうひとつ指摘しておきたいのは、限りなく透明に近い映画に見える『フォンミン』おいても、そこにはやはり明確な意志、つまり演出が見てとれるということだ。

あらためて考えてみるまでもない。ワン・ビンは、わざわざ現場にいる自身の姿を編集で消し、わざわざあそびのあるサイズを選択し、わざわざオーバーラップをかけてカットをつないでいる。
『なみのおと』のファーストカットとおなじく、たまたまそれがそのように映ってしまった、ということはあり得ない。『フォンミン』もまた、「演出」によってできあがった映画である。

おそらくワン・ビンは、命令を取り除く演出をすることによって、映画の「不自由」を乗り越えようとしたのではないだろうか。
だがそれは、映画を自然らしく見せるということでは全くない。自然らしさとは、いわゆる「ドキュメンタリー風の演出」がなされた映画において発せられている、「自然なものとして見よ」という、もうひとつの命令である。
それは一見すると「自由」であるがゆえに、最も危険な命令である。

「不自由」とは、言い換えれば「映画の限界」のことだ。その「不自由」について沈黙を守ろうとしているようにも見える『フォンミン』だが、沈黙は、さりげない音よりもむしろ余計に、それが無音ではないということをあらわす。
つまりワン・ビンは、積極的に語らないことで逆説的に「映画の限界を露呈」し、「自由だと錯覚するような作家や観客たちに向かって、その錯覚を晴ら」しているのである。

先に、『フォンミン』と『なみのおと』は全く逆向きの映画である、と述べた。しかしどちらも、映画の「不自由」について語っているという点においては、全く同じ方向を向いている。ただ、その語りが「沈黙」によるか「雄弁」によるか、という違いがあるだけだ。
『なみのおと』は、絶えず命令を発し続けることで、映画が根源的に抱える限界に注意を促しつづける。そのような映画自体は珍しくはないかもしれないが、こと「雄弁さ」においては他に類を見ない作品だと言えるだろう。

「語り」の撮影方法

『なみのおと』は、映画の不自由について語る映画である。そして同時に、二時間を優に超えるその上映時間は、ほとんどが人々の語りで占められている。ただし、語りと言っても、実際話される内容はある人物の個人的な経験であり、昔話や伝説といったような「物語り」とは少し違う。

特に、夫婦や姉妹などの語りは、彼らの間で日常的に交わされているそのままのものだろうと思われるような軽妙さをもっており、きわめて素朴で微笑ましいものですらある。だからそれは、表面的には、日常会話に近い形式なのだが、にもかかわらずおよそ、自然なものとして見ることができない違和感を含んでいる。

どうしてそんなことになってしまうのだろうか。これが「小津的な見つめあい」であるから、というのがひとまずの結論であったわけだが、そのもう一つの理由としては、この映画の一風変わった撮影方法が挙げられるだろう。

『なみのおと』は、人々の語りを、極めてアクロバティックな方法で撮影している。

実際の現場では、二人の人物は反対向きに隣り合って座っている。そして各々の前に一台ずつ、二台のカメラが据えられ、人物はそれぞれ正面のカメラを見ながら話すことになる。
つまり二人はてんでバラバラの方向を見ているのだが、しかし互いの声は聞こえているから、普段するようにリアルタイムで言葉を交わし合う。
この会話を撮影して二台のカメラの映像を交互につないでいくと、お互いを見つめあいながら喋っているように見える、いわゆる「切り返し」が成立する、という仕組みだ。
そしてこの撮影方法が特に映画において際立って特殊なのは、それがリアルタイムである、という点にある。

一般に劇映画と呼ばれる映画の撮影において正面の切り返しを撮る場合、一人にカメラを向けて会話を一通り撮影し、それからまたもう一人の正面にカメラを置いて同じ会話を撮影、という流れになることがほとんどである。
その理由はいくつも考えられるが、一番大きな理由は、正面の切り返しで映しとられた人物が如何なる場合においてもカメラを見て演技せざるを得ない、という厳然たる事実だろう。

例えば演技の質とかリアリティとかいったようなものを云々してみたところで、その視線が「捏造された虚構」であることは変わりようがない。カメラを二台用意することは通常、金銭的にも労力的にも時間的にも極めて大きな負担であるから、「だったら別々に撮りましょう」となるのが自然な流れだ。にもかかわらず『なみのおと』は、わざわざリアルタイムであることを選択している。

それは、撮影の現場で今まさに立ち上がっている即興性、即物性を捉えようとする試みであって、つまりはドキュメンタリーが、その言葉の意味で捕まえようとする瞬間をこそ、この映画は撮ろうとしているのだ。
その意味では、ファーストカットからして虚構そのものとすら言えるこの映画は、同時に、全く模範的な「ドキュメンタリー映画」でもあるのだ。

ジャン=リュック・ゴダールは、かつて次のように語っていた。

「私はいつも、人々がそれぞれドキュメンタリーとフィクションと呼んでいるものを、同じひとつの運動の二つの側面と考えようとしてきました。それにまた、真の運動というのは、この二つのものが結びつけられることによってつくり出されると考えてきました」

ジャン=リュック・ゴダール『ゴダール全評論・全発言〈1〉1950‐1967』

「うた」としての語り

この、フィクションであると同時にドキュメンタリーであり、あるいは結局そのどちらでもないような映画『なみのおと』。そこにはきっと語りが映画として撮られることの本質的な何かであるのではないか。ここでは仮にその「何か」を、「うた」と呼んでみることにする。

ここでの「うた」には、無文字社会の言語活動などを研究し、『悲しき熱帯』の翻訳などで知られる人類学者・川田順造の定義を緩用している。

川田は「うたうということ」(『コトバ・言葉・ことば―文字と日本語を考える』所収)において、「人間の伝え合いのなかで、聴く喜びにも増して、はなす歓び、うたう歓びが大きい」として、コミュニケーションにおける「うた」の優位性について述べ、また「「聴くものとしての音楽」よりは、より能動的に「音楽する行為」に重きを置いていた」思想家ジャン=ジャック・ルソーを高く評価している。

「うたう」行為を川田は、「定型性/即興性」、メッセージの伝達方向における「拡散性/自己回帰性」という、「二対の両極性」から分析する。映画における「語り」が、何らかの「うた」性を持っているのだとすれば、その「二対の両極性」とは一体、何を指し示すであろうか。

まずは、「定型性」と「即興性」である。川田によれば「うたう」ことは以下のようなものである。

 「『かたどられた』表出行為であり……定型性によって『よそおわれる』からこそ、発信者はさもなければ発信がためらわれるような自由なことばのメッセージを、即興的に投げ込むことができる。『よそおう』つまり『よそふ』とは、『よそ』のものになることであり、……裸身の自己以外のものになり、それによって自己を表出する、いわば自己異化と自己同定の重ね合わされた行為だ」

川田順造『コトバ・言葉・ことば―文字と日本語を考える』 (P.200)

至極当たり前のことだが、映画の語りは撮影という行為によって「かたどられ」ている。隠し撮りでもない限りは、わざわざカメラの前に誰かが座らされたうえで録画ボタンが押されなければ、映画に語りは映らない。
そこに映った会話がどんなに自然に見えたとしても、撮影されている時点でもうそれは日常会話ではない。撮影された日常は、単にその状況だけでも、もはや日常とは呼べないだろう。

そして前に触れたように、特に『なみのおと』の撮影現場では、二人の人間が横並びでそれぞれ反対向きに座ったあげく、相手の目ではなくカメラを見て喋ることになる。これがおよそ非日常的な状況であろうことは、現場にいなかった人間であっても想像に難くない。
特に姉妹や夫婦など、日常を共有することで作り上げられて来た関係性にある人物たちがあえてそのような状況で語り合うことは、極めて異様な、日常だろう。そして映画が切り取っているのは、つまりこの意味においての日常会話なのである。

場の状況と、撮影という行為。この二つが語りに、「うた」で言うところの「定型性」を与えている。そしてこの「定型性」は、ある人が「映画に撮られる」ことによって、「『よそ』のもの」=「自己以外のもの」になり、「自己異化」させられることによって逆に「自己同定」、つまり「自己を表出」し、「裸のままではメッセージの受信者に身をさらすのがためらわれることば」を「即興的に」伝えることが可能になる、ということを意味しているのではないだろうか。

次に、「拡散性」について川田は、農作業の際に歌われる労働歌などについて「うたう行為の本質からしてそのメッセージは相手を特定せず拡散的に伝わる」としている。そのうたは誰に向けて歌われたものでもないけれど、うたい手はそれが誰かに聴かれることを「ひそかに願ってもいる」。
また、文字を持たない西アフリカのモシ族社会においては、妻が夫への悪口を歌って、それが夫自身に聞こえてしまったとしても、彼は「聞かなかった」ことにし、「あとで、あんなことを言ってけしからんと妻に怒ってはならないという不文律」があるのだそうだ。

『なみのおと』で語っている人々は、それが映画であることを知っている。映画は上映され「拡散的に伝わる」。彼らは撮影されながら、この映像がどこかで誰かに見られるであろうことを知っている。
今となりにいるある人と、二人きりで言葉を交わしているのだとしても、この「どこかで誰かに見られる」という映画の前提を、語り手は「ひそかに願ってもいる」のではないだろうか。そしてこの前提もまた「不文律」として機能するのではないか。

映画には、一組の夫婦が出演している。その会話はまさに夫婦にしかあり得ないような、日常を共有したものだけが醸し出す親しみに溢れたものである。しかしそこに映った日常会話は、「拡散的に伝わる」。
ある場面で夫が妻に、まさに「あとで、あんなことを言ってけしからん」と言われそうなことを語る、ほとんど夫婦漫才のような瞬間がある。その言葉などは、これが映画であるという、一種のアリバイ証明によってもたらされたものだったのではないだろうか。
そして、それまで口にされなかったその言葉を妻に、あるいはどこかの誰かに語ることを、彼は「ひそかに願ってもいた」のではないだろうか。

最後に「自己回帰性」であるが、川田はまた労働歌について、「女性の孤独な作業歌がもつ心情吐露の力(中略)身体動作の反復のうちに、心がいつしか軽いトランス状態になり、意識の規制力が弱められたかのように、胸の奥底にわだかまっていた想いが口をついて」出るものだ、と述べている。

作業歌の孤独性、つまり「うた」は拡散すると同時に、一種のモノローグ(独話)でもあるということだ。

『なみのおと』において人々は、一人で語っているのではない。常に言葉を差し向ける相手がおり、『フォンミン』のように対話者が画面外へと追いやられることもない。さらにそれはリアルタイムで行われている言葉のやりとりなので、とてもモノローグと呼べるものではないようにも思われる。
実際確かにその通りではあるが、しかしこれは映画である。誰かと対話している人物がまっすぐと前を見据える、その視線の先に人間はいないのであった。発せられた言葉は常に、カメラという非生物へ向かっている。そのような対話はどこか、例えば幼い子供が人形と会話をする時のような、一種のモノローグ性を帯びたものになるのではないだろうか。

さらにそのモノローグ的なる語りは、撮影という行為が持つある種の強制力によって一定以上の時間続けられることになる。少なくとも日常のように、飽きたり疲れたりしたからといって気まぐれに会話を中断することは比較的難しくなるだろう。
語り続ける人々は、その「身体動作の反復」によって「心がいつしか軽いトランス状態になり、意識の規制力が弱められたかのように」、「胸の奥底にわだかまっていた想いが口をついて」出てしまうということが、起こりうるはずだ。

『なみのおと』に映しとられた人々の内面を、これ以上憶測で語ることは差し控える。だが、スクリーン上の彼らがおこなっていたことが何なのか、を考えるとすれば、それを「うた」と呼ぶことは、当たらずとも遠くはないだろうと思われる。
それはつまり、日常会話でもなく、演説でも講演でも、あるいは実は語りですらなく、『なみのおと』に映っているのは、そのような「映画であることによってはじめてそうなる何ものか」なのだ。

「うたう」ようにみる

さらにこの映画は、その「うた」を観客がただ一方的に享受するだけではなく、別の仕方でともに「うたう」ことへと導く。ここでいま一度、今度は、映画と観客の間に、「うた」における「二つの二極性」を導入してみよう。

先に『なみのおと』は、映画の不自由さについて雄弁に「語る」映画であると述べた。これはつまり、映画を「かたどる」「定型性」を浮き彫りにする映画、と言い換えることができるだろう。

映画は、映画を「よそおわれる」ことで裸身の映画以外のものになり、「自己異化」と「自己同定」を行う。つまり過剰なまでに「定型的」な映画であるがゆえに、それはもはや映画ならざる「よそ」のものである。
そのために観客は、自身が慣れ親しんだ映画を観るという行為を、一旦括弧でくくらざるを得なくなってしまう。

それはフィクションあるいはドキュメンタリーを観るとか、エンターテインメントあるいはアート作品として観るとか、大衆あるいはシネフィル(映画狂)という立場で観るとか、そういった映画のカテゴライズ、あるいは観客としての自らのアイデンティティが、「自己異化」によって無効化されてしまうような体験だ。

そして、そのことによって観客は「裸のままではメッセージの受信者に身をさらすのがためらわれることば」を「即興的に」受け取ることが可能になっていく。
わたしたちは、スクリーンのなかで語る人々の「うた」を「即興的に」観る。それは見る側もまた「裸のまま」では「身をさらすのがためらわれる」ようなことを感じる、という意味でもあるだろう。

また映画はその本性上、ただ上映されることで「メッセージの拡散性」としてある。観る複数の誰かである観客たちは、その「うた」が他の誰かにも聴かれていることを知っている。
このことは言わば、語られていることについての責任を回避する「不文律」である。『なみのおと』は具体的な誰それに向けて撮られたビデオレターではないからだ。
このアリバイ証明は、ともすれば単なる無責任とも取れようし、実際ある程度はその通りなのだろう。しかしだからこそ観客は、一人の個人としては向き合えないかもしれない、感情に対峙することができるのではないか。

最後に残ったのは、「自己回帰性」である。それを持たらすのは時間だ。「うた」とはつまり、ある長さのことでもある。

そもそもなぜ、『なみのおと』は映画でなければならなかったのか。その映像は、別にYoutubeにアップロードされたひとつの動画でもよかったのではないだろうか。むしろその方が多くの人の目に触れるであろうし、こと今回の震災においては、そのことによって何かより大きな復興支援の礎となったかもしれないではないか。
「それには少し長過ぎる」と言うのであれば、この映画はいくつかのパートに別れていて内容としてもそれぞれ独立し得るのだから、せめて別々にいくつかの短編オムニバスとして上映した方が、沢山の人が気軽に観られるものになったのではないか。映画などといって、一体何をもったいぶる必要があるというのか。

これらは全て、ある意味では正しいことであるだろう。そして、この正しさを退ける権利を、現在では誰も持っていない。
しかし『なみのおと』は、この流通可能性とある程度決別せざるを得ない最も大きな要因であるところの長さをこそ獲得するために、映画であるのではないだろうか(そもそも映画とは、今日ますます長さそれ自体のことのように思われる。「長い映画」とは、一種の同語反復なのだ)。

これまで何度も述べてきたように、『なみのおと』は、切り返しが延々と続く映画である。「延々と続く」のは映画が長いからだ。そして、正面の切り返しで映し撮られる視線は、「納得すべきことがら」としては対話者を見ており、映像としてはカメラ、つまり観客を見ている。
だが、その視線の先にあるものがそのどちらでもないことを、観客は否応なく知らされている。『フォンミン』との比較で述べた、「他者として聞け」という命令によって、である。

観客は、擬似的な対話者として観ることができないし、物語として「納得」することも許されていない。我々は、誰も見ていない視線を、切り返しによって、延々と、しかも他者として観なければならない。その孤独な観客の視線をモノローグ的と呼ぶことがもし可能であるとすれば、そこにはやはり、「自己回帰性」があるはずだ。

『なみのおと』における、果てることのない正面の切り返しを、観客はモノローグ的視線と共に体験する。そしてその「身体動作の反復」のうちに、「心がいつしか軽いトランス状態になり、意識の規制力が弱められ、胸の奥底にわだかまっていた想いが口をついて」出るような仕方で観る……そのような事態が、スクリーンと観客の間に起こっていたのではないか。

作曲家・ピアニストの高橋悠治は、「意図の解体」(川田順造・編『響きあう異次元』所収)と題された文章の中で、ピアノを「ならう」ことについて次のようなことを述べている。

それは「なめらかに動くまで必要なら反復練習をすること」だが、「じつは反復ではなく、毎回違う回路を試しながら、動きを全身に分岐させて、各部分が小さなエネルギーで済む」ようにするためのものであり、そのことによって「中央集権的で意図的な演奏」を脱することができる。そして「意図がなくなるにつれて、音が向こうから来る……鳴り響く空間に触れる『軽み』が身体を運んで行く、これが演奏の状態」である。

そして『なみのおと』もまた、「うた」というひとつの「音楽する行為」なのではないだろうか。

つまり命令とは、ある種のレッスンだったのである。
切り返しを「反復」し、観客を「中央集権的で意図的な」視線から救うこの映画は、「練習」によって彼らを「演奏の状態」へといざなう。
わたしたちは映画の長さのなかにあって、そこに映る人々とともに「うたう」ようにみる。
その時『なみのおと』は「向こうから来る」のだ。

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