フランス人の胃袋の秘密:トゥルー・ノルマンのお話
フランスのノルマンディ地方に住んで10年。
今では当たり前になった習慣も、最初は戸惑いの連続だった。
この時期になると、きっとフランスの大半の家庭でも「トゥルー・ノルマン(Trou Normand)」ではないだろうか?
特に忘れられないのは、初めての義母の家でのクリスマス。
その時に出会った「トゥルー・ノルマン」との思い出が、今でも鮮やかによみがえる。
トゥルー・ノルマンというのは、直訳すると「ノルマンディの穴」。
フランス語で「Trou:トゥルー」は穴を意味する。
コース料理の途中、胃の中に小さな空間を作る習慣のことだ。
この地方特産のリンゴの蒸留酒、カルヴァドス。
冷たいリンゴやレモンのシャーベットと共に供する。
一見奇妙な組み合わせに思えるかもしれないが、これには確かな理由がある。
結婚して間もない頃のこと。
義母宅でのクリスマスディナーに、私は緊張気味に臨んでいた。
フォアグラに始まり、オマール海老のポワレ、七面鳥のロースト──。
フランスの伝統的なクリスマス料理の数々に、胃の中はもう満杯になりかけていた。
そんな時、義母が小さなグラスを運んできた。
「さあ、トゥルー・ノルマンの時間よ」
グラスの中には、リンゴのシャーベットが浮かんでいる。
その下には、琥珀色のカルヴァドス。
私は戸惑いながらも、周りの様子を伺って、シャーベットとお酒を一緒にすくった。
「あら、初めて?」と義母が優しく微笑む。
「これはね、お腹に小さな穴を開けるの。次の料理を楽しむために」
最初の一口で、私は目を丸くした。
冷たいシャーベットと度数の強いアルコールの不思議な調和。
リンゴの爽やかな香りと、カルヴァドスの深い余韻。
そして何より驚いたのは、本当に胃の中に心地よい空間が生まれたような感覚。
この習慣は中世から続いているという。
ノルマンディでは古くからリンゴの栽培が盛んで、その加工技術と共に発展してきた。
豊かな食文化の中で、人々は自然と消化を助け、味覚をリセットする方法を見出したのだろう。
シャーベットを加えるスタイルは比較的新しい工夫だと聞いた。
アルコールの刺激を和らげながら、爽快感を引き立てる。
「どう?素敵でしょう?」と義母。
隣で夫がトゥルー・ノルマンというフランスの食習慣を誇らしげに説明してくれる。
あれから10年。
今では私も、特別な食事の場でトゥルー・ノルマンという習慣が自然になった。
カジュアルな食事会ではその出番はあまりないけれど、クリスマスやお正月、お誕生日会や結婚式など、特別な機会には欠かせない存在だ。
この小さな儀式が、会話を弾ませ、時間の流れを豊かにしてくれる。
時々ふと、義母から教わった「トゥルー・ノルマン」は、単なる食事の作法以上の何かなのかもしれないな、と考えることがある。
家族の絆を深め、人々の心を温める瞬間の一つなのかも、なんて。