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校長の話、覚えてる?

あなたは「校長先生のお話」を覚えているだろうか。

これまで何度となく「校長先生のお話」を耳にしてきた。入学式、卒業式、始業式、終業式、定期集会など、1年のうちに校長が話す機会はたくさんある。それが小学校から高校まで12年間も続くのだから、私たちは相当な時間を「校長先生のお話」に費やしてきたはずだ

ところが、私はそのうちの99.9%を忘れている。きっと、ほとんどの人が校長の話を覚えていないだろう。「校長の話はつまらないし、役に立たない」と結論付けても、反論する人は少ないはずだ。


そんな中、私が唯一覚えているのは、高校の入学式での校長先生のお話だ。「みんな仲良く〜」や「文武両道で〜」といったありがちな話を想定していたが、いい意味で裏切られた。校長先生はたった一言で挨拶を終えたのだ。

〇〇高校へようこそ。この一年、死ぬなよ。死ななければいい!

当時は「なんだこの校長?笑」と半ば馬鹿にしていたが、今考えると、これは素晴らしいメッセージだったと感じる。


耳障りの良い説教や、寓話から得られる教訓を披露されても、私たちの心には響かない。少なくとも、私は校長に対して特に関心もなかったし、偉そうなおじさんとしか思っていなかった。

どうでもいい人がいくら講釈を垂れても、聞き手にとっては毒にも薬にもならない。ただ一つ、伝えられるとすれば「死ぬなよ」くらいだ。これには、単に「身の安全を守れ」という意味だけでなく「死にたいと思うような状況に陥るな」という意味も込められていそうだ。

みんなと仲良くできなくても、文武両道じゃなくても、生きているだけで(あるいは生きたいと思えるだけで)尊いものだ。高校の校長先生の言葉は、その本質を見事に突いていた。


話の最中に眠って怒られるのも、不条理だと思う。授業や集会で眠っている生徒が怒られているのを見るたびに、高校の英語の先生の言葉を思い出す。

ぼくの授業で寝ている生徒がいるのは残念。でも、彼が眠るのは、ぼくの授業がつまらないせいだ。

残念ながら、このような考えを持つ先生は少ない。多くの教員は「支配—被支配」の構図に胡坐をかき、半ば強制的につまらない話を聞かせてくる。そして、自身の支配が不十分である(=寝ている生徒がいる)事実を目の当たりにすると、怒りを露わにする。

生徒からすれば、クラスメイトが起きていようが寝ていようが、どうでもいい。教員が寝ている生徒を叱るのは、単に自分が不服だからだろう。


もちろん、これは校長に限った話ではない。担任やPTAの会長、部活の顧問も同じ。入社式での社長の話や、朝礼での部長の話も、似たようなものだ。

権威を根拠に人前で話をする人は、大概つまらない。なぜだろうか。権威の上に胡座をかいているのか。それとも、権威を脅かさぬよう、当たり障りのない話をするからなのか。

何十人、何百人の時間を奪って話をするのなら、話を面白くする努力くらいはして欲しいものだ。

あとがき

高校の校長先生と、英語の先生は、是非とも「先生」と呼びたい。だが、それ以外の人は「先生」と呼びたくないので「教員」と記した。私の下劣なこだわりである。

この記事のテーマは、以下の動画(該当部から再生されます)をきかっけに思いついた。面白い話をするプロだからこそ、話がつまらない校長に腹が立つのでしょう。カズレーザーと松陰寺のチルるーム、おすすめです。

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