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【めちゃ面白い本】脳のなかの幽霊

今回の本は、V. S. ラマチャンドランほか『脳のなかの幽霊』。
個人的に2024年ナンバーワンの本かもしれない。


きっかけ

上田啓太『人は2000連休を与えられるとどうなるのか?』で紹介されていて興味をもった。

どんな本?

神経科学者である著者が、患者の脳内エラーの実例をもとに人間の脳の仕組みを考察する本。

切断された手足がまだ残っていると感じる患者。左の視野を失ったのに左にあるマーカーを指差す患者。本物の両親を偽物だと主張する患者。脳を損傷し奇妙な症状に悩まされる患者と協力して、脳の神秘を暴いていく。

各章は、著者が臨床で遭遇した神経疾患の患者の奇妙な症状を紹介し、その症状を手がかりに、人間の脳の仕組みや働きを論考していく構成になっている。

V. S. ラマチャンドランほか『脳のなかの幽霊』
訳者あとがき

感想

ワクワクする本だった。非常に内容の濃い本だし、全てを理解できたわけでもない。今回は私が印象に残ったごく一部(本当はもっと紹介したい)について感想を記す。

自然な笑みと、作り笑い

友人に会った時の自然な笑顔と、カメラを向けられて「笑って」と言われた時の笑顔。二つの笑顔の違いは表情を見れば一目瞭然だが、これらの笑顔を扱う脳の領域も違うそうだ。

友人の顔を見ると、その顔の視覚情報は情動中枢を経て大脳基底核に送られる。大脳基底核では自然な笑顔を生み出すのに必要な表情筋の情報をまとめる。この際、思考を司る領域が関与する隙はない

他方、カメラマンによる言葉の指示は思考中枢を経て運動中枢(運動や楽器演奏で活性化される領域)に送られる。事実、右側の運動中枢を損傷した患者は(右脳は左半身と繋がっているので)作り笑いをすると顔の右半分だけが微笑むが、友人や家族に会うと顔全体を使った自然な笑みが生まれる。

友人に会って笑う場合
→ 入力される情報は「友人の顔」
→ 情動的な情報として、大脳の奥で処理される
→ 表情筋が勝手に動いて自然な笑顔が出力される

カメラマンに笑うよう指示される場合
→ 入力される情報は「言葉」
→ 思考的な情報として、運動中枢で処理される
→ 作為的に表情筋を動かし、作り笑いが出力される

私の解釈

脳に入力される情報の性質に応じて、笑顔が出力されるまでの処理経路が変わるのだ。脳はどのように入力情報を分類しているのか気になる。恋人の顔でも、嫌いな上司の顔でも、見た瞬間に笑顔を出力できる(一方の笑顔は偽物だが)。この一瞬の間に、情動か思考かを識別しているのはすごいことだ。右側の運動中枢を損傷した患者の実例も興味深い。この患者は作り笑いがバレてしまうので上司におべっかを使えない。

私は好きな音楽を聴いて踊る(身体を動かす)のが好きだ。ダンス経験のある妻に「いい動きだね」と褒められることもある。他方、振り付けを与えられ、学習し、再現するのは苦手。好きな曲を聴いて自由に踊るときは「情動中枢ルート」で、振り付けの再現を試みるときは「思考中枢ルート」なのかもしれない。そう考えると合点がいく。

視覚(知覚)は案外テキトー

人間の目には盲点(生理的に存在する視野の暗点)がある。日常的に盲点を自覚することは少ない。左右の目にそれぞれ盲点があるが、左右で補い合っている。左目の盲点を右目で補い、右目の盲点を左目で補っているのだ。

左右の目で補完し合うだけでなく、脳によって「書き込み」と呼ばれる補完も行われている。視覚ニューロンが統計的な判断を行い、盲点を補完しているのだ。例えるなら、柵越しにウサギを見ても「身体が千切れたウサギ」ではなく「完全なウサギ」と思えるのは、柵で見えない部分についても脳が「知らせてくれる」ことに似ている。盲点と脳による書き込みは、以下のサイトで体験できる。

やや長いが、知覚に関する説明を2つ引用する。

知覚の完成と概念の完成とは、はっきり区別されなくてはならない。このちがいを理解するために、いま椅子に座ってこの本を読みながら、あなたの背後の空間のことを考えてみよう。あなたは思いをめぐらせて、自分の頭や体の後ろにあるかもしれない物体を考えてみることができる。窓か?火星人か?ガチョウの群れか?あなたは想像力を使って、知れた空間にどんなものでも「書き込む」ことができる。しかしこの場合は、書き込む内容を意のままに変えられるので、私はそのプロセスを概念の書き込みと呼ぶ。
知覚の書き込みはまるでちがう。盲点にカーペットの模様を書き込むとき、何を書き込むかの選択はできないーー気が変わったから変えるというわけにはいかない。知覚の書き込みは視覚ニューロンがする。その決定は一度決まると変えられない。いったん視覚ニューロンが高次の中枢に「これはくり返しのテクスチャーだ」あるいは「これは直線だ」と伝達すると、あなたが知覚するものは変更できない。

V. S. ラマチャンドランほか『脳のなかの幽霊』

いったいなぜ、脳は知覚の完成をしなくてはならないのだろうか。その答は視覚システムの進化に関するダーウィン流の説明のなかにある。視覚の重要な原理の一つは、できるだけ少ない処理で仕事を済ませようとすることだ。脳は視覚の処理を節減するために、周囲の世界の統計的な規則性——輪郭線は一般に連続しているとか、テーブルの表面は均質であるといった規則性——を利用する。こうした規則性は、視覚処理の初期段階で捕捉され、視覚路の機構に送りこまれる。

V. S. ラマチャンドランほか『脳のなかの幽霊』

知覚(脳による書き込み)は、自分の意思を無視して完成される。あなたには盲点があるので、実はこの記事の一部分は見えていない。しかし、見えていない部分に対して脳が勝手に修正を加えているので、盲点を自覚することはない。

まさに、私は当書を読んでいるとき「規則性を利用する脳」を自覚した↓

「偏頭痛」と一続きに書かれていたらすんなり読めるのに「偏頭(ここで改行されて次の行に)痛」と書かれていると、まず「ヘントウ?」となり、次の行に視線を移して「ヘントウツウ?あ、ヘンズツウか」となる。これは「偏」「頭」「痛」と一文字ずつスキャンしているのではなく、漢字三文字をブロックとして捉えている証拠。視覚ニューロンが過去の読字経験をもとに予測しながら読んでいるのかもしれない。

両親は偽物だと主張する患者

ある患者(アーサー)は事故で脳を損傷してから、自分の両親を偽物と認識するようになった。彼は「見た目は似ているが中身は違う。この人たちは両親のそっくりさんだ」と主張する。

著者は「顔の認識と情動の発生に関与する領域はそれぞれ独立しており、その領域間の連絡が途絶えてるのではないか」との仮説を立てた。アーサーは脳を損傷した後も、両親を含めた知人の顔を覚えていた。また、損傷後に性格が変わることもなく感情も穏やかだった。つまり、顔認識と情動発生の領域は正常に機能している。残る可能性は、それらの領域間の連絡が途絶えていることだ。

アーサーは両親を認識はするが、顔を見ても何の感情も感じない。愛する母を見ても「あたたかさ」を感じないので、「この人がお母さんなら、なぜ一緒にいてもお母さんと一緒にいるような気がしないのか」と自問する。このジレンマを回避する唯一の方法は——脳の二つの領域に異常な断絶があるという状況の解釈として彼が唯ーできるのは——この女性はお母さんに似ているだけだと決めつけることだ。

V. S. ラマチャンドランほか『脳のなかの幽霊』

私たちが誰かの顔を認識すると、その顔に紐づけられた情動を参照しつつ、その人物を同定する。この一連の処理は次のように例えられる。

顔識別の担当者「この顔は母親の顔です」
情動の担当者「今、あたたかい気持ちになっています」
上司(私)「なるほど。この人は私の母親だ」

私の解釈

「顔識別の領域」と「情動発生の領域」の両方からの報告がないと、私たちは真の意味で知人を認識できないのだ。顔ごとに「情動の予測値」があり、その予測値を上回れば本物、下回ると偽物と判断するとも考えられる。換言すれば、思い入れの強い人ほど「偽物」になりやすい

私は小学生のころ、突如「母親が偽物だ」と確信して恐怖した↓。これは数ヶ月間続き、いつの間にか終わっていた。実はアーサーような疾患はカプグラ症候群と呼ばれ、2/3が精神疾患、1/3が脳損傷に起因するらしい。私は当時、学校に行くのが嫌すぎて半不登校の状態だった。この一時的なストレスの影響で、脳内の情動担当者がおかしくなり、母親に対する「あたたかさ」を感じられなかったのかもしれない。顔に対する情動反応を促進する領域の入り口は「扁桃体」であり、扁桃体はストレス反応に重要な役割を果たしているので、あり得そうな話だ。

まとめ

何度もいうが、本当に内容が濃い。このnoteでは書き切れないほどに。私は本を読みながらメモを書くのだが、当書のメモは(引用部も含めて)2万字近くある。それほど、興味深い内容だった。

著者のラマチャンドランは、TED Talksでもニューロンについて語っている。かなり面白い。皮膚がなければ、世界全体とつながれる・・・?

ちなみに、当書の内容はコチラ↓で語られているものに近い。

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