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無職、空港ラウンジで日経新聞を読む
先日、空港ラウンジで日経新聞を読んでいると「ビジネスマンみたいだね」と妻に笑われた。ラウンジでジャケットを羽織り、コーヒー片手に新聞を読む私(無職)はまるでビジネスマンのようだった。
このギャップに、私も思わず笑ってしまった。確かに空港ラウンジで新聞を読む無職は、少々場違いに見える。でも、ふと考えた。無職らしい行動とは何だろう? そもそも「らしさ」とは一体何なのか?
無職らしさ
空港ラウンジで、ジャケットを着て、日経新聞を読むのは無職らしくない。では、逆に無職らしい行動とは何か?
試しに「無職 イラスト」とグーグルで検索してみると、スウェット姿でスナック菓子を散らかしながら布団で寝そべる画像がヒットした。これを見て、確かに「無職らしさ」を感じた。
ビジネスマンみたいと笑った妻。一緒になって笑った私。無職のイメージ画像を表示したグーグル。その画像に共感した私。これらの根底には「らしさ」という概念がある。今回でいえば「無職らしさ」だ。
この「らしさ」は、無職だけではなく、さまざまな場面で存在している。「高校生らしいことができなかった」と嘆く人を見れば、部活や恋愛など青春っぽい経験に未練があるのかと勘繰る。「社会人らしくしろ!」と怒られている人を見れば、締め切りやマナーを守れなかったのかなと勘繰る。
こうした「らしさ」の共通認識は、人々の生活にどのように影響しているのだろうか?
「らしさ」の功罪
「らしさ」は一種の束縛になり得る。かといって、この概念を完全になくすと社会は混乱する。
たとえば「社会人らしさ」が全く存在しない社会では、レジで商品の会計を放棄する店員、テキトーにニュースを読むアナウンサー、私情を挟む裁判官が跋扈するかもしれない。だからこそ、一定の「らしさ」が社会の秩序を保つ役割を果たしている。
しかし、過剰な「らしさ」の押し付けは、不自由の象徴でもある。たとえば「先輩らしく堂々としろ」「子供らしく大きな夢を持て」。こうした過剰な期待は、人々を苦しめる。
「らしさ」との付き合い方
結局、程よく「らしさ」を守るのが良いことになる。ただ、この「程よく」というのは曖昧で感覚的な基準だ。私の場合、法律や公序良俗に反しない限りで「らしさ」を無視している。
たとえば、以下のような「らしさ」は守っている。
病院で静かにする
初対面の人に敬語を使う
人前で糞便を垂れ流さない
一方、以下のような割とどうでもいい「らしさ」は無視している。
男らしく家族を養う
大人らしく社会経験を積む
年頃の夫婦らしく子供を持つ
現実世界では、こっそりと「らしさ」の首輪を外すのが賢明かもしれない。「らしさ」を崇拝しない者は迫害を受けるリスクがあるからだ。みんなが「らしさ」に縛られている中で、自分だけがこっそりと「らしさ」の首輪を外す。こうすれば迫害を受けることなく自由になれる。
とはいえ、あえて人前で「らしさ」の首輪を外してみると、相手がどれだけ「らしさ」を崇拝しているのかを確認することもできる。実験として周囲の反応を観察するのも悪くない。
あとがき
私は主夫を名乗る無職だが「主夫らしさ」や「無職らしさ」を意識したことはない。私は外部から与えられた規範を軽視する傾向にあるので、誰かに「〇〇らしくしろ」と言われても心に響かないのだ。
「自分らしく生きよう」と啓発するつもりはないが、私のような「自分大好き人間」は自然と自分らしく生きてしまう。妻は私と正反対で、社会的に求められる「らしさ」を忠実に守るタイプ。お互いに「変な人だなぁ」と面白がりながら、共存している。
最後に「らしさ」の功罪を風刺的に描いた動画を載せておく。
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