小説『いちばん暗くて、いちばん明るい部屋』
秋の月に照らされた彼女の横顔は何よりも美しかった。
椅子の上で膝を曲げて抱えたまま、窓の外をぼんやりと眺めている彼女のことをこのまま永遠に見ていたいと、そのとき僕は心の底から強く思った。
誰かに対してそんなことを感じるのは、後にも先にも、ただその時だけだった。そしてその想いは、僕が生きているという事実よりも確かで、僕の生命の重さよりもずっしりとした手応えを僕に感じさせるもので、疑いの余地のないものだった。
彼女の存在を前に、どんな言葉も無力だった。ましてや僕の貧弱な言語能力で彼女の何を表すことができるというのだ。水をざるで掬おうとするのと同じように、僕の言葉では彼女の魅力を何ひとつうまく表現することができない。
そう、彼女の存在について表すことなど僕には到底不可能なことなのだ。しかしながら、たとえ不可能だとしても、それでも僕はどうにかしてその試みを続けていかなければと思う。何せ、彼女が僕の前から姿を消してから、もう12年という時が過ぎようとしているのに、否応なく僕の心を激しく揺り動かし続けているのだから。
彼女の存在は、晴れた夏の日の日差しよりも強くじりじりと僕の心を焦がし、ときには、冬の夕暮れよりも深い寂しさを僕の心にもたらす。時が過ぎ去った今でも。
彼女は何を見ていたのだろうか。彼女は何を考えていたのだろうか。
それとも、何を見ているでもなく、何を考えているでもなく、ただそこに存在していただけなのだろうか。
どこか遠くから、ピアノの演奏が聞こえてくる。丁寧に調律されたグランドピアノの音だ。完璧な演奏ではないが、きっと、どこかの裕福な家庭の少女が演奏しているのだろう。夜の住宅地に静かに響くその物悲しい旋律が、僕に虚しさを運んでくる。そしてその虚しさは、僕をここではないどこかへと執拗に誘い続ける。その誘惑に、僕は抗することができるのだろうか。果たして、今度こそは打ち勝つことができるのだろうか。
彼女を失った。いや、失ったという表現も相応しくないのかもしれない。結局のところ他人は、どんなに親しくなろうとも、自分のものにはならないのだ。それでも、かつて僕の中で彼女が占めていた位置には、今でも彼女が存在している。もちろんそれがいつか存在しなくなってしまう可能性は多分にあるとしても、確実に今は存在しているのだ。
彼女と語り合いたいことは、無限にあった。そしてそれはこの世の海よりも果てしなく際限ないものだった。
彼女に語り掛ける代わりに、宛先のない手紙を書いたこともあった。けれど、手紙を書き続けたところで、僕の心の中の空間が満たされることはなかった。そこには絶えず乾いた冷たい空気が漂っていた。そこでは、一文たりとも、美しい言葉が紡ぎだされることはなかった。ただ、クリーム色の紙の上に、ネイビーの擦れた文字が万年筆で記されていくだけだった。おまけに僕は、救いようもないくらい字が下手だった。いったい誰がそんなものを読んでみたいと言うのだろう。そうは思っていても、手紙の数々を自分で破り捨てることもできず、段ボールの中に乱雑に放り込んできた。箱の中にはどれだけの手紙が溜まっているかなどわからない。そんな恥ずかしいものを自分で見る勇気もないのだ。
それから、手紙を書くことすらできない時には、誰もいない海岸で、朝から日が暮れてしまうまで、海に向かって無言で語り掛ける日も数え切れないほどあった。耐え切れずに声が枯れるまで叫んだことも、1度だけだがあった。
12年の間、僕は誰とも寝なかったわけではない。けれど、そのうちの誰とも、ずっと一緒に居たいと思ったことはなかった。
あれから12年、どれだけの人が生まれ、どれだけの人がこの世を去ったのだろう。僕の全身の細胞は何回生まれ変わったのだろう。
明日の朝も、僕はいつもと変わらず、彼女が大好きだったオムレツを焼き始めるだろう。近所のスーパーで一番高い北海道産バターと、セール品のたまご、そして塩を少々。皿に移したら、ケチャップをかける。
あれから僕は、いったいいくつのオムレツを作ってきたのだろう。もはや僕の身体は、絶妙なタイミングを覚えていて、しかるべき時が来れば、反射的にコンロの火を止めてしまう。僕はもう、オムレツ作りで失敗することができなくなってしまっている。
これから、あと何個のオムレツが、この小さな鉄のフライパンで焼かれていくことになるのだろう。
いっそのこと、このフライパンを海に投げ捨てたかった。それなのに、そう思うときほど、フライパンを握りしめたまま身動き一つ取ることができなかった。
まったく。
オムレツを作るということ。それは果たして誰のための行為なのだろうか。それはこの世界で何か意味を見出すことができる行為なのだろうか。
そんな長い作り話を、きみはいつものように、くすくすと笑いながら聞いていた。ときどき釣られて笑いそうになりながら、何とか深刻そうな様子を保って、ぼくは終わりまで語り続けることができた。
「あなたの妄想って、ほんっとに暗いのね。そんなこと、わたしには想像もできないよ。羨ましいくらい。」
きみはそう言った。
「羨ましくなんかないさ。それはそれで面倒なんだよ。」
ぼくもいつもと同じように、笑いながら言葉を返す。
そんなきみの冗談と、無防備な笑顔に、ぼくはいつも救われている。
真っ暗な部屋の中で、オレンジ色のキャンドルの光が、穏やかなまなざしのきみの瞳を照らしていた。