ショートショート 髪まぐわい|ピーター・モリソン
髪まぐわい
祖父の三回忌には顔を出せと父に言われ、実家に帰った。
昼前までの法要にはつき合ったが、親族一同の会食には参加せず、黒スーツのまま町を歩くことにした。
小中高と、ここで過ごした日々を想いつつ海沿いを行くと、昔通っていた理髪店が視界に入ってきた。潮風の影響だろうか、外装の風化が進んでいる。止まったサインポールの横に立ち、僕は定休日の札をぼんやり眺めた。
休みかと一人呟く。硝子窓から店内を覗き見て、不意に足を止めた。反射のせいか、それは灰色の影のようにしか見えなかった。誰かいる。……顔を寄せ、目を凝らしてみると、その影が長椅子の横で佇む麻美さんだと気づいて、僕ははっとなった。
「りょうやくん?」
こちらに気づいた麻美さんの口の動きだけで、そう言ったのがわかる。
「うあ、久しぶり。……帰ってきてたの?」
ドアを開き、顔を出す。
「……法事で。お久しぶりです」
「入って。……何年ぶり? ちょっと待って、冷蔵庫に苺あったから。……食べるよねえ?」
奥へ消えた麻美さんは、しばらくしてボウルに盛られた苺を手に戻ってきた。
麻美さんは高校の二つ上の先輩で、バスケ部のマネージャーだった。最初の練習試合で怪我をして手当を受けたとき、初めて彼女を意識した。長い髪が綺麗で、仕草の一つ一つが大人っぽかった。……もう出会って十年近くになる。
僕らは理髪店の長椅子に腰かけ、苺を頬張った。
「甘かったね、苺」
麻美さんは少し緩んだ髪留めを直した。リブ編みのニットとスキニージーンズ。それらがとてもよく似合っていた。
「今、どうしてるの?」
都内の美容院で勤めていると、僕は答えた。
「え、そうだったの。美容師に……」
「大学受けてみたんですけど、どこもだめで。結局、美容専門学校へ。手に職をつけた方がいいかなと思って。……麻美先輩は?」
「わたしも理容師と美容師の資格をとったよ。……けど、まあ、いろいろあって」
俯いて、指先に視線を落とす。
「少し前に、離婚したの。……うまくいかなくなってね」
別れたあと、仕事も辞めたと言う。体調を崩したのが原因らしい。
「急に強い眠気が来て、なんか、倒れちゃうんだ。情けないよね。だから病気が落ち着くまで実家暮らしに。……まあ、暇してるの」
他人事のように笑い飛ばしたあとで、麻美さんはコーヒーを淹れてくれた。
「よく髪を切りに来てくれたよねえ」
マグカップを傾け、僕の顔をまじまじと見つめる。あの頃、麻美さんは専門学校に通いながら、実家の理髪店を手伝っていた。カットはおやじさんで、そのあとの洗髪を麻実さんにまかされていた。
「おやじさんがまた来いよって、しつこく言うから……」
それは嘘だった。ただ麻美さんに髪を洗ってもらいたくて、僕はここに通っていた。
「懐かしいね」
昔話に花が咲いたが、心の内にある想いを伝えられるはずもなく、しだいに言葉も尽きてきた。沈黙がちになり、麻美さんが壁時計に目をやったところで、そろそろ帰った方がいいのでは、という想いが頭をかすめた。
そのうち、それじゃあ、と言って腰を上げるつもりでいた。けれども、口から出た言葉はそれとは違っていた。まるで自分の中の誰かが、堪らず声を上げたようだった。
「先輩、お願いがあるんですけど……」
「何?」
「髪、洗ってくれませんか」
二つ上の先輩にどう伝えればいいのか、高校生の僕には見当もつかなかった。
……そんな気持ちをもてあましているうちに、時間は容赦なく過ぎ去り、麻美さんはあっという間に卒業してしまった。
麻美さんが去った学校はとても味気なかった。喪失感を拗らせ、身の入らない毎日を送っていたが、偶然、ここで働く麻美さんを見かけ、心が高鳴ったのを覚えている。
それ以来、この町を出るまで、毎月この理容店に足を運んだのだ。
「昔に戻ったみたいね……」
顔に乗せられタオルの隙間から、僕の髪を洗ってくれる麻美さんを見つめた。その姿に月日の流れを感じた。
「……気持ちいい?」
頷きたくても頷けない。シャンプーの泡、やわらかい指先……。
「流すね」
シャワーの音がしている。湯気の匂い。その温かさ……。
この感覚を、もっと深く味わおうと目蓋を閉じてみたが、妙な違和感を覚えた。タオルの下で目を開く。麻美さんの気配が一瞬消えたと思うや、鈍い音が続いた。
「……先輩?」
身を起こすと、麻美さんが足元に倒れていた。髪から水を滴らしつつ呼びかけてみるが、返事はない。慌てる気持ちをぐっと抑え、ぐったりとなった麻美さんを抱え上げる。とりあえず、今まで座っていたセットチェアに寝かしてみた。
確か、急に眠りに落ちてしまう病気だと話していた。よく見れば普通に呼吸をしているし、ただ寝ているだけのようだ。……しばらく様子をみるべきか。
僕はタオルで頭を拭きつつ、カット用のスツールに腰を下ろした。大きく息をつき、眠っている麻美さんを眺める。リブセーターの胸が上下している、とても穏やかに……。
二人きりだった。思いがけない再会に、心がさらに巻き戻されていく。
かつて麻美さんの髪を一本、持ち帰ったことがある。そうだ、上着の袖についていたのだ。頭を洗ってもらったあとに気づいて……。はらって床に落とすつもりだった。けれど、気づかれないように摘み上げ、ポケットの中にしまい込んだ。
「りょうやくん……」
意識が戻ったのかと思い、腰を上げるが、そうじゃなかった。
麻美さんはどんな夢を見ているのか? うわごとでも、名前を呼んでくれたことが嬉しかった。そのせいかもしれない。夢の中に僕がいるのなら、何をしても許されそうな気になった。きっと魔が差したのだろう。
僕は麻美さんの髪留めを取り去り、髪を解き放った。神聖な泉の水を口に運ぶように、両手で髪を掬い上げ、頬にあてた。さらに、鼻にあて、唇にあてた。
ふと正面の鏡を見ると、背中を丸めた醜い自分が写っていた。いったい何をしている? 背徳感がこみ上げ、髪から手を放そうとしたが、それが出来なかった。
髪が、僕を放さなかったからだ。
まるで蛇のようなしなやかさで、僕のシャツの腕に巻きついてきた。
「美容師は仕事柄、お客さんの髪を触るだろ。髪にはいろんな想いが絡まっている。そんなもやもやしたものを、俺たちは少なからず取り込んでしまうらしい」
店長の言葉を思い出した。
原因不明の体調不良に悩んでいたときに、そう教えてくれた。都市伝説のように思っていたけれど、身を持って体験すると、納得するしかなかった。
「凌也《りょうや》は特に敏感な体質なのかもな……。お客さんの想いに引きずられないよう、気をつけないとな……」
だからと言うわけではないが、目の前の奇妙過ぎる光景に、不思議と取り乱すことはなかった。
髪を振りほどくことは簡単に出来ただろう。しかし、それらは麻美さんの意思の延長だと考えると、身を任せるしかなかった。
髪は何かを求めているようだった。二の腕、肩、そして首へと、髪は螺旋を描きながら這い上がる。素肌を撫でたあと、その毛先の群れは首筋の毛穴に、次から次へと潜り込んでいった。
「麻美さん……」
鳥肌が立ち、毛穴がぎゅっとそれらを締めつける。が、髪は勢いを緩めることなく、毛穴から毛根、ついには毛細血管へ忍び込み、首の裏側を辿り、上へ上へと向かっていく。血流が乱れ、頭が朦朧する。立っていられなくなり、麻美さんの胸に頭をゆだねた。
なおも髪の侵攻は続いた。血管を乗り換えながら、骨の隙間を通り抜け、頭蓋へ達したようだ。ついには脳の神経に行き渡り、その動きをやっと止めた。
不穏な静寂がしばらく続いたあと、毛先から何かがびゅっと放出された、ようだった。それは痺れるような信号に変換され、意識へ染み入った。
……これは。
今、髪を伝って送られて来ているものは、麻美さんの記憶……なのだろうか。
――大きな手で、髪を撫でられるのが好きだった。綺麗な髪だと、彼の声がする。満ち足りた気持ちが広がっていく。わたしを認めてくれる人だと思っていた。だけど……。
ほかの男を見てただろう! 豹変する彼の態度に、息を詰まらせた。見ていない。嘘をつくな! ……戸惑いと恐怖で身体が動かない。会うごとに、彼の態度はひどくなっていった。
耐えられなかった。相談を持ちかけていた女友達。その表情が見る間に曇っていくのを見て、さらに不安が込み上げる。とりあえず、わたしと彼が間に入るから、一度話をしよう。その言葉に涙した。
怖くて怖くて仕方なかった。けれど、待ち合わせのカフェへ行った。……彼がいる。怒ってる。あなたがたには関係ない。悪びれない声。冷静に話せない。もうつきまとうのは止めろ。彼女が可哀想よ。庇ってくれる声、それらは彼に届かない。言い合いあと、渋々立ち去る彼のうしろ姿を、わたしは遠くに見ていた。ふとスマホを見ると、そこに並ぶ通知。俺はどうかしてた。許してほしい。続く文字、文字――
脈打つようにして、髪はさらなる記憶を送り出す。
――左手の真新しい指輪に触れる。台所から振り返ると、そこに夫がいる。新居のリビングテーブル、そこに置き忘れた携帯が震えている。機種変更したばかりで、通知の設定が出来ていなかったのに気づいて、慌てた。……咄嗟に隠してみたものの、夫に気づかれた。それ何? なんでもないの。話して欲しい。どうにもならなくなって、彼のことを告げた。定期的に連絡が来るけど、全部無視している。それを貸してみて。俺が守るから。夫は自分の存在を知らしめ、彼をブロックした。刺激しない方がいいと言ったけど、耳をかしてくれなかった。……だから、あんなことに。
日曜日の午後、玄関チャイムの音が妙に大きく響いた。玄関を開けると、突き飛ばされた。無理矢理上がり込んできた宅配業者は、彼だった。おい、麻美を返せ! いい加減にしろ。夫が彼の胸を押す。怒号と共に、揉み合う二人の影。刃物が床に転がって。血が流れて。もう止めて――
想いを遂げたのか、麻美さんの髪はずるずると後退し始めた。血管の内側を毛先が触れると、脳髄の奥が痺れるようだった。力が抜け、気が遠くなり、僕は意識を失った。
「りょうやくん……」
耳元で声がした。
目を覚ました僕は静かに身体を起こした。麻美さんの髪は何もなかったかのように元通りになっていた。
「びっくりしたね。……わたしもびっくりした。こんなこと。……何て言ったらいいのだろう」
困惑する彼女を見て、あれは夢ではなかったと僕は知った。
「……見たのね?」
僕が頷くと、麻実さんは何か言いかけて目を伏せた。
掛け時計の音が聞こえていた。長い長い時間が僕らの間を流れたようだった。
「……夫の傷はひどくてね、障害が残ったの。夫にはやりたいことがあったけど、それが出来なくなって。……それからかな。酔うと、なじるんだ。おまえが気のあるような態度をしたからだって……」
首を傾け、麻美さんは何度も何度も髪に手櫛を入れた。
「すべての元凶は、このわたしだと思うと、自分が嫌になって、どうしようもなくなるの。だから、意識が消えちゃうのかもね。こんなわたしから逃げ出したくなって」
笑って見せたが、瞳はすぐに涙に溺れた。
「りょうやくんがせっかく来てくれたのに。わたし、もうだめみたい……」
麻美さんは震えながら、髪の中に顔を隠した。
「ごめん、今日は帰って……」
伸ばしかけた手を戻し、僕はスツールから腰を上げた。慰めの言葉の一つもかけられない自分が、情けなく思える。息をつき、踏み出そうとすると、不意に手を掴まれた。
「待って……」
手のひらが涙で湿っている。
「お願いがあるの」
髪の毛の隙間から、濡れた瞳が光っていた。
「……切ってほしい。わたしの髪を」
シャツの袖をまくり、おやじさんの鋏を手にとった。
職人は道具を貸し借りしないものだが、今は仕方がない。ヘアカットクロスを麻美さんに巻きつけて、首のうしろで留める。
「……切りますね」
美容師の手つきで、髪に触れる。
「どうしよう、怖い。……どうしよう」
麻美さんは自分の髪を守るように、頭を抱え込んだ。
「……たかが髪の毛のこと。それはわかっているつもり……。わたし、スポーツも勉強も苦手だった。けど、髪だけは褒めてもらえたの。それはお世辞だったのかもしれない。だけどね、大きな支えだったの。髪さえあれば、誰かに認めてもらえるって」
その細い肩にそっと手を置くと、麻実さんは静かに頭を上げた。
「僕は麻美さんじゃないから、軽々しいことは言えないんですけど。でも、僕らは過去に囚われて生きるべきじゃないと思います……」
僕は黒いネクタイを外して、それで麻美さんの目を隠した。
「人の髪を切っていると、そこからわかることがあります。言葉にはしにくいですけど。……髪は、そのときどきの想いを記憶しながら、伸びていくんだと思います……」
顎のラインで、髪を小分けに束ねていく。
「想いは心を温めます。けれど、強過ぎる想いは何も生まない……。だから、少し我慢してください」
すっと息を吸い、髪を落としていく。鋏の音に合わせて、麻美さんは肩をびくっと震わせた。
髪を断ち終えると、毛先を整えてから、目隠しを取り去った。
鏡に映る自分を見つめながら、麻美さんは今まで髪があった辺りを、宙をかくように指先で撫でた。
「ありがとう……」
急に言葉を詰まらせ、顔を歪めて泣き始める。
見ていられなくなって、僕は床に落ちた髪を箒で掃き、専用のビニール袋へ入れた。……強過ぎる想い。それはきっと、呪いのようなものなのだ。
僕はポケットから財布を取り出し、挟んであった透明な包みを摘み上げた。そこには髪の毛が一本入っている。あのときの麻美さんのものだ。いろんな想いが去来してくるが、それをビニール袋の中へ入れ、口を閉めた。
僕も、呪いのその一部だったかもしれない。
ゴミ捨てから戻ってくると、麻美さんは鏡の中の自分と向き合っていた。もう泣いてはいなかった。
「一ヶ月後、またここに来ていいですか?」
「一ヶ月後?」
麻美さんはこちらを振り返った。
「自分の鋏を持ってきます。おやじさんの道具を借りるのは、やっぱり気が引けるから」
一ヶ月先を待ち遠しく想いながら、僕はシャンプー台の蛇口をひねった。
「髪、流しましょうか」
〈了〉
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