ペーパー・ムーンの詩学~遙かなる二十世紀詩 (5)〈怪優奇優侏儒巨人美少女、さあさあお立合い〉
寺山修司二十歳のおりのエッセイ(「カルネ---<俳句絶縁宣言>」)に「美学をぼくはVOUクラブで学び、…」という一節があります。「VOUクラブ」は北園克衛が結成し、詩誌「VOU」を発行していました。北園は高校生の寺山が送ってきた同人誌を読んで、その才能に興味を持ち、大学入学のため上京した寺山をVOUクラブに参加させています。
北園は「幾何学的な芸術、T.E.ヒュームのオピニヨンに共通した非人間主義的な傾向を鮮明にしていた」(「黄色い楕円:一人のVouポエットの記録」)と書き、またエズラ・パウンドとも交流があるモダニズム詩人でした。北園を通じて寺山はモダニズムの美学から大いに影響を受けたのではないでしょうか。
でも一方では、パウンド等に日本の俳句が強い影響を与えたことを考えると、「中学から高校へかけて、私の自己形成にもっとも大きい比重を占めていたのは、俳句であった」(『誰か故郷を想はざる---自叙伝らしくなく』)という寺山にとって俳句のなかのモダニズムにつながる部分---事物のモンタージュやイメージのオブジェ的配置法など---はすでに自家薬籠中のものでもあったはずです。
十代のころすでに寺山は先輩俳人の句の中からお気に入りの単語を抜き出し並びかえて句を作り出す、というような作業に熱中していました。彼は生来のモダニストであったのかもしれません。
寺山修司の劇団「天井桟敷」の旗揚げは1967年。その劇団員募集の際のコピーは「怪優奇優侏儒巨人美少女等募集」というもので、「見世物の復権」がテーマでした。このコピーだけみても、すでにコトバをオブジェ化し、さらに人間をコトバと同様にオブジェとしてあつかい、その内実を問わないという寺山の特徴がでているようです。
その第二回公演『大山デブコの犯罪』について寺山はこう書いています。
ここには1960年前後からさかんにおこなわれるようになった「ハプニング」とよばれるパフォーマンスと共通する肉体のオブジェ化があるように思います。
スーザン・ソンタグ(1933-2004)によればハプニングのひとつの特徴は「人間を《登場人物》というよりもむしろ物体として利用したりあつかったりすること」です。
さらにソンタグはハプニングはもちろん二十世紀のあらゆる芸術にはシュルレアリスム的感性が流れているとしています。
そしてこの感性には「ある種の情熱的非芸術を喜ぶ傾向」があるといいます。それは「ラディカルな併置」にとって重要な「機知」を成り立たせるために必要な趣向です。ソンタグはシモーヌ・ド・ボーヴォワールの回想録のなかの「私がサルトルやオルガとたびたび日曜の午後を過ごした蚤の市を流行させたのもシュルレアリストだった」という文を引用して、次のように述べます。
寺山修司は初期の天井桟敷を回想して「私は見世物からメイエルホリドまでというキャッチフレーズで、巨人侏儒から変身願望者、衣装倒錯症など『いわゆる祝祭的人間』ばかりを集めて、カーニバルを演出することばかり考えて」いたと書いています(『戯曲 毛皮のマリー』:角川文庫)が、彼のなかのキャンプ的要素をうかがわせます。
「アルトーは、私の演劇の入門書」(『消しゴム---自伝抄』)と寺山は言い、天井桟敷の『邪宗門』が海外で上演された際には「アントナン・アルトーの演劇論の実践」(『戯曲 青森県のせむし男』:角川文庫)という評価をうけたそうです。が、一方で「観客に手をふれる演劇」という非難もあびています。
ソンタグはそのアントナン・アルトー(1896-1948)の演劇論こそ「ハプニングがどんなものであるかを、何ものにもましてよく説明している」と述べています。
このソンタグの「ハプニング---ラディカルな併置の芸術」を読んでいると、まるでこの文章が寺山修司が演劇へ向かう際の水先案内人だったのではないかという不思議な思いにおそわれます。実際にはこの一文が収められたソンタグの『反解釈』が出版されたのは「天井桟敷」の旗揚げ前年の1966年、翻訳されたのはずっと後のことになりますから、そういう関係ではなかったと思いますが。
「天井桟敷」は海外では高い評価を受けながら日本では「アングラ」という風俗のひとつの現象としかみられず、長い間まともな演劇としての批評の対象にもならなかった、と聞きます。モダニズムのコトバの錬金術をそのまま舞台にもちこんだような寺山の演劇はハプニング的要素が強すぎたのでしょうし、素人ばかりを舞台に上げて好きなことを叫ばせるなど完成度を度外視したキャンプ的演出が高尚な演劇好きのひとたちによく思われなかったであろうことは想像がつきます。
そして演劇だけでなく詩の世界においても寺山修司の評価というものは微妙です。
『寺山修司コレクション2 毒薬物語』(思潮社)によせた文章の中で荒川洋治は寺山のコトバの取り扱い方に機械のような手さばきを感じ取っています。
親しくつきあった谷川俊太郎でさえ「寺山は現代詩にはいいものがなかった」というようなことをどこかで言っていたように記憶しているのですが、これは戦後詩におけるモダニズムへの評価の低さがそのまま影響しているようにぼくには思えてなりません。
(補足)
劇団「天井桟敷」についてあれこれ書いていてなんですが、その舞台をぼくは観たことがありません。寺山の晩年、「天井桟敷」は関西公演もおこなっていて、観るチャンスはあったのですが、なぜか「観たい」という気になりませんでした。
そしていまでもそのことに対する後悔の念というものは不思議と湧いてこないのです。
ぼくにとって寺山修司とは、ただ彼のコトバであれば充分、なのです。
(完。一応…。いつか続きを書くかも知れません。)