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命の日

今回は少し重い話になってしまうかもしれない。
そして色々端折ったけど長くなってしまった。
この話は書くべきかどうかずっと悩んでいたが、
いつか書きたいと思ってたので書くことにした。
賛否あると思うが、読んで頂けるとありがたい。

高校生になって1ヶ月も経たない頃、
小学生時代から仲の良かった友人が突然、
この世を去った。悲しむ心の準備もなく、
しばらくの間、ただただ虚無感に包まれて生きていた記憶がある。それのせいにする訳ではないが、高校を辞め、ミュージシャンを志し、
上京するきっかけになった出来事でもある。

それから十数年、生きていく中で何人かの近しい人とお別れをする経験をした。そのほとんどが急な出来事で、何を思えば良いのか、何をすれば良いのかわからないことが多かった。なんと言うか、大人になると『ただ悲しむ』という感情には中々ならないもので、仕事や日常生活の中で純粋に悲しむ余裕がないというのが現実である。

私が小学校低学年の頃、私の母が癌になった。
今の時代、そう珍しい病気でもないが、幼い私は『癌』という病気は『死』に直結していると思い込んでいた。春休みに母が入院することになり、不安な気持ちでいっぱいだった。手術は成功したと聞いたが、体の一部を切除され、抗がん剤治療で髪は抜け落ち、見るからに以前の母とは別人になったように感じた。

それから20数年ほど経過し、転移再発などを繰り返しながらも割と元気に暮らしていたと思う。
体調が悪そうな時期もあったが、正直、自分のことで精一杯であまり気にしていなかった。
あまり考えないようにしていたが、『いつか来る日』が脳裏をよぎる事がしばしばあった。

それは5年先かもしれないし、10年先かもしれない。もしくはずっと先のことかもしれないし、明日かもしれない。その日は誰にも平等に訪れるし、それがいつなのかは誰にもわからない。
だがしかし、明確に意識し始める出来事が起こってしまった。母の生きがいは『歌』を歌うことだった。そんな人間が『気管切開』をしなければ『死ぬ』という状況になったのだ。

その手術をすると『声』が出せなくなる。
これは『歌手』としての『死』を意味する。
少なくとも母は歌えない人生を望まなかった。
私はそれでも生きていてほしかった。
何とか必死の説得で『気管切開』をすることに同意してくれたが、その頃から目に見えるように衰えていったように感じる。あるアイテムの活躍で奇跡的に『声』を完全に失うことは回避できた。

4年前の7月、母の大好きなスカイツリーに呼ばれた。家族3人での食事が終わり、デザートを食べながら母から余命宣告を受けたことを聞いた。
『来年の桜を見ることはできないだろう』
主治医から言われたそうだ。何とも遠回しな表現ではあるが、『余命半年〜1年くらい』だと母は
ポジティブに捉えていたし、私もそう信じていた。

ちょうどその頃、職場の先輩の影響で『将棋』を始めたことを母に話した。何故かよくわからないが、その新しくできた趣味を喜んでくれた。
母の体調が気にならなかったわけではなく、何をしてる時も頭の中にうっすらとは浮かんでいたが、仕事もそれなりに忙しかったし、将棋ウォーズ初段になった先輩に早く追いつきたくて、
ほとんどの自由な時間を将棋に費やしていた。
ある意味、現実逃避しようとしていたのかもしれない。

12月の第1日曜日大阪城ホール『1万人の第九』というイベントがあり、何年か前から母はそれに参加していた。この年も参加する予定で、本番までに何回かあるレッスンの会場まで私が付き添っていた。平日は会社を休むこともあった。
本番を1ヶ月前に控えた11月、在宅治療も限界となり、入院することになった。かと言って、何か治療法があるわけではなく、ただ痛みや苦しみをほんの少しの時間、緩和するだけだった。

私は一人暮らしで同居しているわけではなかったので、医療関係者が近くで生活のサポートをしてもらえることは心強かったが、日に日に衰え、強く見えていた母の弱いところを見ているのは本当に辛かった。仕事終わりや休みの日は、なるべく毎日会いに行こうとしていたが、まともに会話ができる日が少しずつ減っていた。

そんな中でも母は12月に大阪に行くことを諦めていなかった。強行で一時退院して、病院の車椅子を強引に借りてレッスンに参加したりもした。
当然、歌えるコンディションではないはずなのに、それなりに歌っていたらしい。私は反対したかったが、最後にやりたい事をやらせてあげたいという気持ちと常に葛藤していた。大阪も私が同行する予定になっていて、道中何かあった時に医療に対して全くの無知な私に何が出来るのか不安しかなかった。

11月中旬に母が入居を希望していたホスピスに空きができたと連絡を受け、母の代わりに私が会社を休んで面談に行った。色々な説明を受けたが、『人生最後の1ヶ月』を過ごす場所だと理解した。
費用面は病院と比べてかなり高額になり、経済的に大ダメージだったが、母の最後の願いを叶えてあげたかったので、転院を決めた。

転院の予定は11月28日の朝だった。
前日の仕事終わりに母の入院している病院へ行き、付き添いとして部屋に泊まる予定だった。
会社のカバンの中には『3手詰ハンドブック』や、
『攻めて強くなる戸辺流中飛車』などの棋書が数冊入っていた。母が眠った後、その本で勉強しようと考えていた。それはとても甘い考えだった。

病院に着いた時、母の容態はかなり悪く、
本人曰く、もう長くないから今すぐに父を呼んでくれとのことだった。夜も遅くなってきて、病院に行ったところで帰る事は出来ない時間だ。次の日も仕事である父は少し悩んでいた。というのも、このような状況が初めてではなかったからだ。しかし、何度も何度も『今日死ぬから来てくれ』とうわ言のように繰り返し、父は病院に迎うことにした。

実家から病院まで1時間半くらいはかかる。
数分おきに『まだかまだか』と催促するが、
私にはどうすることもできない。『もう無理』と何度も繰り返していたが、何とか父が間に合った。私は母に頼まれ、Facebookに最後の言葉を代わりに投稿した。『私の人生は幸せでした』
色々と思い残す事がある中で、この言葉が本心なのか、私は疑問に感じていた。

父が病院に到着し、母は私と父に感謝の言葉を伝えた。少し落ち着いたのか、眠くなったようだ。
時計は0時を回り、日付が11月28日になった。
父は私に少し仮眠を取るように言った。
病室に用意された付き添い用のソファに横たわりウトウトし始めた頃、父に名前を呼ばれた。
母が呼吸をしなくなったとのこと。
医者の先生と看護師さんを呼んだ。

「延命措置はされますか」と聞かれたが、
「しなくて構いません」と即答してしまった。
それは単に解放されたかったわけではなく、
これ以上苦しむ母を見たくなかったから。
綺麗事かもしれないが、本気でそう思った。

朝を迎え、転院するはずだったホスピスに母が亡くなったことを伝えた。親戚や知り合いへの連絡、退院手続きや、葬儀屋の手配など、意外とやる事は多かったが、昼過ぎには逆に何もすることがなくなった。何をしてたらいいのかわからずソワソワというか、モヤモヤというか、何とも言えない感情だった。少しずつ準備していたからなのか、『悲しい』という訳でもなく、『寂しい』という実感もなく、ただいつもと変わらない日常だった。

昼食も普通に食べたし、Twitterにもくだらないツイートをした。でも、母が亡くなったことには一切触れなかった。何となく現実味がなかったからかもしれない。不謹慎だと非難されるかもしれないが、初めて実家の近所にある将棋道場に行った。その時間は暇らしく、客は誰もいなかった。席主みたいな人と二枚落ちで指したが、負けた。
将棋を指している時は、他に何も考えずに済んだ。

結果的に大阪に行くことはなかったし、
ホスピスに転院することもなくなった。
私の負担を考えると助かったと思う反面、
母の最後の願いを叶えてあげたかったという
後悔が今だに残っている。

毎年、この時期になると必ず思い出す。
どうしてあげるのが正解だったのか、
私の考えや行動は間違っていたのか、
母の人生は本当に幸せだったのか、
今の私を見てどう思っているのか、
とりあえず、母が何故か喜んでくれた趣味を
続けていこうと思う。

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