失敗を素直に認められない
新卒で会社に入社してまず教わったのは「ミスをしたら上司に報告すること」だった。
実際にミスを上司に報告しないで自分で進めてしまったことがある。幸運なことに大きなミスに膨らむことなく、ミスがミスとして気づかれないまま終わったがあのミスを誤魔化すためにかなり長期にわたって嘘をつかないといけないのが結構しんどかった。
失敗したときに一番辛いのは「失敗を素直に認めないことであたかも成功したかのようにコミュニケーションが連鎖してしまうこと」だった。その時の経験から失敗は失敗だと認めようと強く心に誓った。
それで他人に迷惑がかかる類のミスはすぐに関係者に報告できるようになったが、いまだに自分だけで完結しそうな問題については失敗だと認めていないものが多々あるように思う。
※例えば「転職したけど失敗だったよね」とか「あの休日の過ごし方は失敗だったよね」とかそういうものを指す。
なぜ失敗したと言えないのかもなんとなくわかる。
大学の心理学の講義で習った「認知的不協和理論」だけはよく覚えている。有名なので釈迦に説法かもしれないが、この理論は自分の選択が失敗したと思いたくないため理由を適当につけて事後的に成功したかのように解釈することを指している。
※例えば、転職で失敗したと思っても「この苦労も自分にとっては良い経験だった」と再解釈するなど。
自分の経験でも、選択が失敗だと認めないために失敗であることを決定するのを先送りにするか、シンプルに失敗だと認めないことが多い。
次に、失敗した個人の心理的側面以外にも「失敗を観察する他者」の方にも失敗だと認めてあげない風潮があるように思える。
特にリベラル系の論者に多いのが何かの失敗が起こった時にそれは失敗ではなく、社会構造が不可避的にもたらした「被害」であるという主張をよく目にする。
つまり、ミクロな個人的な問題がマクロな社会構造に読み替えられることで失敗が「被害」に読み替えられる。
おそらく20世紀後半以降の自己責任論の反動からか、弱者を守るときに被害者個人ではなく社会に責任を帰属させることがリベラル的なお作法になっているため失敗は失敗だと認められない。
しかし、被害者だったとしても自分の加害性や過失にも考えが及んでしまうのが被害者というものではないだろうか。
例えば、DVの被害者だったとしても「自分の発言のせいで自分のパートナーを加害者にしてしまった」という反省や後悔を抱くのではないか。
100%被害者の立場に立って失敗を被害に読み替えていく(=被害者の代弁)は人間の心に寄り添っているのかどうか慎重に検討されなくてはいけない。
ここまで失敗が失敗だと言うことができないのは失敗した個人だけでなく、失敗した本人の周囲の環境にも原因があることを見てきた。
つまり、失敗した個人への教育によって失敗を素直に認めてもらう取り組みだけではダメで、失敗した個人の周囲の環境も一緒に考えなくてはいけない。ここで何か良い案があるわけでないがきっと安易に被害者の代弁をしている事例を1つ1つ潰していくことしかないのかなと思う。
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