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「良い矛盾」と「悪い矛盾」の条件を考える

ローティの「偶然性、アイロニー、連帯」を読んでいたら突然矛盾について考えが止まらなくなったので備忘録としてかく。

自分の関心ごとは、自分の私的利益しか考えない人間が公共的になれるのか?ということなので、その問いに対して示唆を与えてくれる本だった。

結論から言うとローティは私的と公的は別々の言葉を使用する議論なので2つを無理にまとめようとせずにバラバラで良いという主張をする。

これは自分の歴史観や経験から考えても納得がいく。

古代ギリシアでは自分の生活や利益を守るのは基本的に奴隷や女性の役割だったので家父長(男性)は自分の生活や利益よりももっと大きな視点で普遍的な正義や道徳やルールについて思考することができた。しかし、近代以降、私的領域と公的領域が混ざるにつれて1人の人間が一方では自分の生活や利益を守りながら、同時に広い視点で社会や公共についても考えざるを得なくなった。その場合、一方では私的利益確保のために行動しながらも、他方では公共的な役割のために振る舞うという「本音と建前」の使い分けが不可避になってくる。つまり、自分の生活を守る言動と社会を守る言動に乖離がある状態である。

これは例えば、自分の生活よりも広い視野を持たなくてはいけなかったり、家族よりも大きな組織を代表しなくてはいけない場面を想像すればわかりやすい。私は動画広告の営業として働いている時があったが、私生活では動画広告がうざいと感じながらも、他方では会社の利益のために動画広告の重要性について力説する自分が1人の人間の中に併存している。このような状況で自分の言動に一貫性を持ったり、矛盾を生み出さないようにすることはかなり困難なので多少の意見の変更や矛盾を認めていかなくては人間関係を健全に営むことができない。

しかし、同時に人間は矛盾ばかりの人間を「信頼できない」と思う時がある。ローティの考えを当てはめるのならば人間は基本的に矛盾がある生き物なので、どのような矛盾であれば許せるのか、どのような矛盾だったら許せないのか、という良い矛盾と悪い矛盾の条件を考えることが次のステップになると考えている

そして僕自身の考えを述べさせてもらうと、「まず普遍から考え始める人間」は悪い矛盾に当てはまるのではないかと思っている。

まず悪い矛盾とはどのようなパターンかを想像してみると多くの場合、「できると言ったことができなかった」「目指すと言ったことを目指していなかった」など、もともと発話者が設定した期待値を下回る結果しか出せないときだと思う。

なぜ期待値を下回ってしまうかというと、

・理想像が高すぎる(「べき論」の暴走)

・所属する集団に流される(空気の暴走)

の2パターンがありそうだ。

まず、前者の場合は、学校やインターネットで流布される美辞麗句や美しい理念をそのまま人間の行動原理や現実の社会認識に当てはめてしまうことによって、

そして後者の場合は、自分が所属する集団内で当たり前とされている基本的な理念やルールに盲目的に従うことによって、

実現可能性を全く考慮せずに理念だけを発言してしまうことで、いざやってみた時とのギャップが大きすぎて失望が生まれるということが起こる。

この2つを難しく説明したのが吉本隆明の「関係の絶対性」だと思っている。自分が絶対にできると無批判に考えてしまう(=幻想を信じてしまう)ことは、実は他者との関係や社会で流布される情報によって押し流されているだけで自分で考えたことではなかったりする。だからこそ吉本は世論や知識人から距離をとって自分の生活を守るために懸命に生きている「大衆」に可能性を見ている。

大衆は自分の生活の利益だけに関心があるので世の中ではやっているイデオロギーから独立して思考することができる。だからといって全く関係から独立しているわけではなく、自分の商売にお金を払ってくれる顧客との関係性は持っている。言い換えれば、生産者と消費者の関係性であるが、この関係は貨幣を通じた等価交換によって成り立っているので、等価交換ではないと思えばいつでも関係から抜け出すことが可能になるということがかなり重要だ。顧客の言いなりになって生活を守れないのであればその顧客を無視するし、顧客側も商品の質に満足できなければ他の店で買えばいい。お互いが私的利益を確保するという目的のために繋がっていることで、お互いが「現実的に」満足しているのかどうかによって自由に参加したり退出したりできる関係が出来上がる。

悪い矛盾の条件は、人間関係や世間で流布される情報に流されて期待値設定をミスしてしまうことによって起こる。そして、それを回避することは吉本の「関係の絶対性」で言うところの大衆が作る人間関係や思考方法が参考になる。大衆は巷で言われる知識人の難しいイデオロギーよりも、私的利益にしか興味がない。だからこそ、私的利益の大小によって自由に抜けたり入ったりできる自由な関係を作り上げる。等価交換でつながる関係に浸かりながら、一方で自分の足を引っ張るような関係とは簡単に縁を切れる。そのような現実感に基づいた関係こそが、普遍的な理念や「べき論」ではなく、地に足ついた現実的な思考を可能にする

では、良い矛盾とはこれを逆転させて考えればよさそうだ。

つまり、私的利益を追求するところから生まれる理念である。

まず、大衆の原理として自分の生活や私的利益を守ろうと思えば、どうしたって他者をどこかで排除したり選別してしまうことがあり得る。誰だって他者よりも自分の命や健康を守ろうと思うし、他者の子供よりも自分の子供を守ろうとする。

※それにも関わらず、自分の利益よりももっと大きな普遍的な理念を優先的に考えることで自分の生活との乖離が大きくなり悪い矛盾を引き起こしてしまうのだった。

しかし、人間は排他的であるからこそ、結果的に普遍的なことを思考する回路も持っている

例えば、人は他のものにも増してどうしても好きになってしまうものがあったり、没頭してしまうものが存在する。僕がバスケばかり見るのはバスケが世の中で一番おもしろスポーツだと思っているからだし、その点では他のスポーツへの偏見がかなり存在している。しかし、僕がバスケを盲目的に、他のスポーツを選択肢から排除しながらも観戦してしまうのと同様に他の人にとっても同じように他のスポーツよりも優先的に観戦したり応援したりしてしまうスポーツがあるはずだ。

そう考えると、自分の権利だけでなく他者がそのスポーツを優先的に見ることについてもある程度理解できるし、その権利を守りたいと思える。つまり、自分の生活や利益ばかり考えると排他性や排除が生まれてしまうのであるが、そこからさらに突き詰めると他者にとっても何かを排除したり選別するくらい重要な何かがあることを理解できるので、排他性を通して普遍性を理解したり尊重できるようになる。

普通に考えれば、自分が排他的であることを認めながら、普遍的な正義や道徳も大事だと思うのは実際矛盾していると思う。しかし、これは僕にとっては私的利益の追求、つまり現実的な生活感覚から生まれる良い矛盾なのだ。


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