別役実『その人ではありません』について
本作にあらわれる「葛藤」について、作者自身が、「価値の対立による葛藤ではなく、次元の幅を異にすることによってもたらされた葛藤であり」と述べている(『台詞の風景』白水社)。わたしはこの度その「次元の幅」の差異を解読しようとしたのだが、どうしても見えてくるのはツユノあるいはウエムラ・セツコの戦略あるいは彼女そのもののありようであった。そしてそれらは、「結婚しようとすること」ー「人間関係を取り結ぼうとすること」と言ってよいかわからないのだがーに関する絶望的な状況を示しているようで、途方に暮れた次第である。
両者はどちらもassumptionを嫌っているのは間違いないのだが、男は単に「お見合い」の次元でhonestであってほしいと願っており、女は「ツユノ」のとの「コミュニケーション」の次元でhonestであっておしく、かつassumeしてほしくないー自分の言ったことの枠の外でassumeしてほしくないと願っている。
もちろん男について、女とのコミュニケーションに対し、腹蔵なく誠実にコミットせよと、言えなくはない。しかしそれは罠である。次元の違うところにいるのだから、どこまで行っても「それがどうした」 という思いは消えないのであり、コミットしようとすればするほど相手にはassumptionの存在が明らかになってしまうのである。ために、なじられるのである。このことが表れるのが、終盤、男がついに「もうよして下さい、そんな下らないことを言うのは。」と言った以下の流れである。つまり男は「お見合いの次元」が「ツユノとのコミュニケーションの次元」より優位になったと思われるタイミングを見計らって、正直になったのである。しかし彼は目測を誤った。「どうせ私のハンカチなんですから。あなたのティッシュペーパーじゃないんですから」と口を滑らせてしまうのである。言うまでもなくこの言い方は、 「ツユノとのコミュニケーションの次元」 のものであり、「下らないこと」として切り捨て切れていないものである(これは自分の次元を展開するにあたっての相手を圧倒するエネルギーの欠缺の問題かもしれないーつまり何でもいいから声を出して話さなければ、自分の土俵に引き込めないのである。故に口が滑る。罠は、このことをも想定している)。だから、相手に「そんな風に考えてらしたんですね」と言われる余地を見せてしまうのである(「口がすべったってことは、心の中でそう考えているせいだからじゃないんですか…?」)。こうなってしまうと、通常、糾弾はとどまることがない。
男が「結婚の話」をすることができるようになったのは、劇の進行上の問題というのもそうだと思うが、それよりも「私のハンカチ」の存在が、 「ツユノとのコミュニケーションの次元」 において、女にとってかろうじて発見された腹蔵のない男の姿であるからではないか(その内容が「ハンカチはクリーニングすれば元通りになるからそうするんだ」ということだけであるかもしれないとしても)。
では女は何を考えていたのか。彼女はこの方法でなければ「ウエムラ・セツコのことをよく理解して」もらうことはできないと考えていた。そしてそのこと自体は、失敗していない。しかし彼女は企みとして「ツユノ」を通じて「 ウエムラ・セツコ 」を理解させようとしていたのだが、男は「そのように企む ウエムラ・セツコ 」を理解したのであって、言うまでもなくその「 ウエムラ・セツコ 」は「結婚」の次元に立つことはできないー「ツユノ」が「お見合い」の次元に立たなくては「 ウエムラ・セツコ 」を登場させられないのだが、もちろんそのようなことは常識的に受け入れられない。だからこそ、女は 「ツユノとのコミュニケーションの次元」 においてデスパレートであり、優位に立たなければならないのである。そして 「ツユノとのコミュニケーションの次元」 はどこまでも閉ざされた環境であり、そこに相手を包摂しきった時に初めて、「レースのカーテンのこと」のような「実感」が点のように表出されるのである。
おそらく現在の我々は、女のように、他人のことであるように話さなければ、自分のことなど表現できないのかもしれない。しかしそもそも、自分のことをなぜ話さなければならないのか。このシチュエーションは「お見合い」であった。確かに「お見合い」においては自分のことを紹介しなければならないかもしれない。しかし少なくとも男は、それほどそのことを考えていないように思われるー実際的な生活環境のことしか述べていないのである。中年同士のお見合いだということもある。だから「自分のことを話す」こと自体が罠なのだ。「コミュニケーションの次元」というもの自体、我々をひどく疲弊させるものに違いないのだ。ではそうするように唆すものとは何なのか。それはわたしにはまだよくわからないし、これがそうだと言えるものはないのだろうが、少なくとも感じるのは、コミュニケーションに相手を引き込み、honestyを求めること自体に、外界そのものに対する恐怖とassumptionがあるということだ。つまり自分は常に「自分はその人ではない」ということについて100パーセントhonestであることを仮構でき、そうである以上異なる次元から「その人」に働きかけようとする意図はすべて不誠実なものになる。裏切られるために、コミュニケーションを企むのである(「でも、あなた自身、よくおわかりでしょう?」)。
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