その女性は概念じゃない
女性を前にすると緊張する。でも、彼女が欲しい。
なので、それを何とかしたくて風俗へ行った男です。
乱暴に短く書くと、私は若い頃、こんな感じの男でした。
●目次
・風俗通いをして、良かったと思うこと
・あの頃、本に書いてあることが、すべてだと思っていた
・生身の人間よりも先に概念があるわけじゃない
・「いま、ここ、この相手」専用の攻略マニュアルは存在しない
・「君は僕じゃない」 BY サディスティック・ミカ・バンド
◎ 風俗通いをして、良かったと思うこと
鬱々と、いろいろと、ここnoteに書いていますが、風俗通いをして、良かったと思うことも、多々ありました。
様々な女性と出会えたことも、そのうちのひとつです。
本当に、色んな女性がいましたね……
なんでこの人、こんなに明るくて前向きなんだろう? と思う女性も、数はとても少なかったですが、いましたね。
ひょっとしたら、その人、こういった仕事が向いていたのかもしれませんが…… どうなんだろう? 私には、よくわかりません。
いえるのは、他の女のコと比べると、そういったコは他のコとは違うということです。
そして、そういう人ほど、短期間でいなくなるような気がします。店を変えたのか、業界からいなくなったのかは、わかりませんけれど。
もしかしたら、短期間と決めていたから、努力が出来たのかもしれませんね。
そうやって、それらの店に通っているうちに、ぼんやりと感じることがありました。それは、自分の頭の中にいる女性と、自分が今向き合っている生身の女性とは違う、ということです。
自分が考える女性像と、生身の女性像とには、ずれがある、ということに気がついたのです。
これらは、空想の女性とか、妄想の女性とかとは、またちょっと違うのですが、これに気がついたことは、とてもいいことだと思っています。
もっとも、当時の私には、そうは思っていませんでしたけれど。
私には今も女心はわかりませんが、当時の私は、概念の女性と、生身の女性を、ごっちゃにしていました。
そのことについて、書きたいと思います。
● あの頃、本に書いてあることが、すべてだと思っていた
当時の私は、本をたくさん読んだんですよ。
会話の本、人間関係の本、自己啓発本、心理学の本、などなど。
恥ずかしい話なんですけれど、当時の私は、人間関係の正解は、本に書いてあると思っていたんですね。
……うん、まあ、うん。今の自分だと、いろいろ思うところはあるのですが……
いえ、本が間違っていると言いたいのではないですよ。
いいことを書いてある本はたくさんありました。まあ、そうでない本は、もっとありましたねどね。
それで、そういった本に書いてあることを、女のコたちに試してみんたんです。
ここに書いてあることを実践すれば、うまくいくものだと、あの頃の私は信じて疑わなかった。
風俗の女のコって、会話のプロじゃないんですね。会話をすることが風俗でのメインの仕事ではないといいますか。会話のプロは、キャバ嬢のほうなのかな?
風俗の女のコでも、話がうまい女のコはいましたが、そうでないコはもっといた記憶があります。
それで、ですね。こっちも会話ベタというか、雑談が出来ない男でした。相手も、会話がそんなにうまいわけじゃない場合もありました。
そういう時は、目茶苦茶頑張ったわけですよ、ええ。結果はどうであれ。
……あれですね。会話の本に書いてあることって、人見知りする私でも、初回は何とかなるんですよ。超疲れるけど、初回はね。ただ、2回、3回と会うたびに、話す内容がなくなっていくっていう……
それで、ですね。
そのうち、変な感じがするようになったんですね。
一方的に、こっちからボールを投げているだけで、会話のキャッチボールになっていないというか、そういう感覚。
必死に本に書いてある通りやっているつもりだったけれど、何かが噛み合っていない感覚。
話がちょっとそれますが、風俗店での会話って、ちょっと特殊な気がします。
会話の本には、相手に質問してみましょう、なんてことを書いてあるものもありましたが、そういった仕事の女のコに、こちらから根掘り葉掘り聞いたとしても、私は、あまりいいことが起きるとは思えません。
ただ、相手が打ち解けると、聞いてもいないのにプライベートなことを自分から話し始めるのですが……
それで、ですね。いろいろ考えたのです。
その内のひとつですが──
自分は、まず理論(本)ありきで、理論を行動に移している。
本に書いてあることを、相手の女性にやっているけれど、本は基本正解しか書いていない。
本に書いていないことは書いていない。っていうか、本に書いていない対応を女のコがしたら、自分は対応できなくなった。
というか、そもそも、この女のコ専用の対処マニュアルはもっていない。そういうものはない。
自分は、本、理論とか情報とか概念とか思考とか、そういったものに沿って行動しているけれど、いま、ここで起きている現実から判断して、行動しているわけではない。
これって、逆じゃない?
まず先にあるのは現実であって、理論や技術論は、その後じゃない?
──と、考えるようになりました。
◎ 生身の人間よりも先に概念があるわけじゃない
生身の女性って、概念でも思考の産物でもないんですね。
生身の人間って、テキストデータとかではないんです。
その人を表現した言葉はあっても、、言葉が先にあるわけではないのです。その人が先なのです。
まあ、これは女性だけではないですが。
● 「いま、ここ、この相手」専用の攻略マニュアルは存在しない
野球だったかサッカーの選手だったか、忘れてしまいましたが、「みんな、球をよく見ていない」と言っていました。
いま、ここで起きていることって、言葉でも概念でもないんです。
でも、多くの人は、いま、ここで起きている何かを判断するとき、考えてしまいます。
そして、考えるには、言語化する必要があります。
いま、ここで向きあっている相手を判断するとき、その相手そのものではなくて、マニュアルのことにしか意識がいかないことって、先にいった、スポーツ選手のいったことに似ています。 ……似てない?
逆をいうと、口説きにしろ、ナンパにしろ、うまくいかない人の多くは、相手のことをよく見ていないようです。
これはもろちろん、私も含めてですけれど。
考えすぎる人よりも、「なんとなく」で動いている人のほうがモテるのは、思考ではないものを判断基準にしているような気がします。
そして、そういう人たちは、よく人を見ている。
マニュアルって、人はみな同じとしてあつかうじゃないですか。というか、そうしないと、成り立たないというか。
でも、いま、ここで、自分が向きあっている相手が、そのマニュアルに(文字として)書いてある女性と同じである、という根拠は、どこにあるのでしょう?
……ちょっと、言い方が、抽象的ですね。
「それって、カーナビの画面だけを見ながら、車の運転をしているようなものなんじゃない?」といったほうが、伝わりやすいのかもしれませんね。
車の運転の操縦マニュアルは存在するし、それを否定はしませんが、「いま、ここ、この道をどのように走ればいいのか?」は、マニュアルには書いてないんです。
雪道の走行方法、雨天時の走行方法、高速道路の走行方法などはありますが、「いま、ここ、この状況」の判断は、自分でするしかないんです。
◎ 「君は僕じゃない」 BY サディスティック・ミカ・バンド
その判断をするためには、観察することが、必要なんです。
なにを観察するのか?
いま、ここで起こっていることを、です。いま、ここで向きあっている相手を、です。
そうすると、自分の頭の中にいる女性、なんなら、マニュアルの中にしかいない女性とでもいいましょうか、そういった存在と、いま、ここで、自分の目の前にいる女性は、違うのだ、ということに、ぼんやりとですが、気がつくようになりました。
相手は私の頭の中にしかいない存在ではない。自分がこうだと(勝手に)考えている相手と、今目の前にいる相手は、たぶん違う。
その、(自分の)頭の中にしかいない女性、概念としての女性と、自分の目の前にいる女性とが、同じであると、何の根拠もなく考えている。
言葉は、それそのものではないにもかかわらず。
話がそれますけれど、ナンパの本や動画を見て、違和感を感じるのは、だいたい都会を前提として話を進めていることでしょうか。
駅前での声掛けなんて、いま私が住んでいるところでやったとしたら、速攻でうわざになるし、そもそも、人がほとんど歩いていません。
私は、あまり答えのようなことを書きたくないのですが(それは各々導き出すものだと思います)、そういったマニュアルがなくて不安な気持ちも、わかります。すごくわかります。
なので、いいます。ちょっと偉そうにいいますけれど、まず観察することです。
相手のことも、そして、自分のこともです。
それぞれのテクニックの選択などは、その後だと思います。
相手や自分や状況に合わせてテクニックを使うべきだと私は考えます。
あるいは、引く判断とかね。
いうと馬鹿にされるので(あるいは怒られるので)いわないようにしているのですが、「女性とつきあいたいと思うのなら、女性とつきあっていることだ」と、私は本気で思っています。
若い頃の私のような男性に、こんなことをいうと、腹を立てるか、落ち込むかするでしょうけれど、変な話、どんなに優れたマニュアルや本をウン百冊読むよりも、ひとりの女性とのつきあいのほうが、何かを教わることが多かったです。
ある種の人たちにとって、それが難しいのは知っているので、こんな事を書くのは気が引けるのですけれど。
その相手は概念だけの存在ではない。自分も概念だけの存在ではない。
だから、「この相手は○○だ」とか、「自分は○○だから」とか、言語化するときは、とても注意しないといけないと私は思います。そういった概念に飛びつくことが先ではなくて、それを観察することが先だと思う。
そういえば、サディスティック・ミカ・バンドも、「Touch me 君は僕じゃない」と、BOYS & GIRLS歌っていました。概念に触れることは出来ない。
この記事を書いているときに、サディスティック・ミカ・バンドの歌詞を、なんとなく思い出して書いたのですが、若い頃に聞いたときは、なにも思わなかった歌詞、あらためて検索して読んでみたら、なんだか、すごく意味深な歌詞ですね。
自分の考える相手と、相手そのものが、同じとは限らない。
本に書いてある女性像と、目の前にいる、その女性と、同じとは限らない。というか、多分違う。
当時の私は、こうしたことを言葉にはできなかったけれど、なにかこうしたことを、ぼんやりと感じるようになっていったのです。
ひょっとしたら、当たり前ではないか、と思われるかもしれませんが、これ、意外とむずかしいことでして……