10年続けたTwitterをログアウトした話
高校生。
友人と頭を突合せ試行錯誤をしながらようやく作ったTwitterアカウント。
当時は何物なのかもよく分からなかったが、メールやブログより簡単に周りの情報が入ってくるそのアプリに心が踊った。
小さな街に住む私のところに、大都会の情報や流行りのファッションやメイク、芸能人のプライベート写真が目まぐるしく入ってくる。こんなに“繋がっている”という感覚が実感出来るものは初めてだった。
そこから10年。27歳になった今、無意識にアプリを開き、当たり前のように情報を得るようになった。あの頃のふわふわとした新しい感覚はもう微塵も残って居ない。
自らの出来事も、写真も、躊躇いなく発信し続けた結果、久しぶりに会った人たちからも「久しぶり」の言葉もなく「最近の〇〇はどんな感じなの?」なんてつい先日あった出来事がリアルタイムで会話に組み込まれる様にもなった。私の知らないどこかで、知らない人達が私の日常を知っている。
冷静に考えれば怖いと思う事も、ネット社会と呼ばれる昨今では当たり前になっている。
実際に私も、Twitterのおかげでたくさんの人に声を掛けられる様になったし、人との輪も広がった。まるで昔からの知り合いみたいに話し掛けてくれる人もたくさん増えて、「Twitter様々!!ありがとう!!」なんて事も数え切れない。
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先日、恋人と別れた。
最後に言われた(直接ではなく手紙で)一言は『Twitterで俺のことクソって言ってるの知ってます。もう無理です。』
一切身に覚えがないその一文に驚き、すぐ訂正をしようとした。
「私そんな事呟いてないよ。何かと勘違いしてない?」
やめた。
事実がどうであれ、彼がそう感じ私に陰性感情を抱いたのが現実の世界で起きていることだ。
Twitterの中で何が起きようが、今私が生きているのはインターネットでは無い。
もう、言葉を残すことはやめた。
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それから数日、数週間と過ぎた。
「私は何もしていないんだから」気にしないでおこうと思えば思う程アプリを開く手が震えた。たくさんのツイートが流れる画面を見ながら、息が苦しくなった。動悸と、眩暈。
涙が溢れて止まらない日もあった。
心がザワザワするような、苦しさもあった。
このアプリを使えば、彼の日常がわかる。開く事は一度も無かったが、すんでのところまで指を動かしてしまうことは何度かあった。下品な事をしている自分も嫌だった。
楽しい事を取り入れよう。楽しい事を発信しよう。
そんなワクワクした気持ちで大好きな友人たちと始めたアカウントが、いつの間にか私を追い詰めるものになってしまった。
アプリを開けなくなってしまった。
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10年。いい節目かと思い、一旦Twitterを全てログアウトした。
今の私には不必要なものだと思った。
流行りのファッションもメイク道具も、Twitterからでなくても検索すればたくさんの情報が手に入る。
気になる人達がいれば、別の方法で連絡を取ることだってできるし、何より会いに行ける脚がある。
私が生きてるのはTwitterの中じゃない。もっと広くて、もっと自由で、140文字なんて制限もない。
訴えたい事はたくさんある。
呟くな、叫べ。
声を大にして叫ぶんだ。
苦しい事も辛い事も、もう死ぬんじゃないかと思った事もたくさんある。
でもそんな時に救ってくれたのは小さなSNSアプリなんかじゃなく、目の前にいるたくさんの大切な人たちだった。
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いずれ消えてしまうかもしれないTwitterより、決して消えることはない私の生きた足跡を残していくこと。
自由で、愉快で、少しひねくれて、幸せになる努力を惜しまない私が確かにそこにいたという事実を嫌という程残していくこと。
今の私に必要なことはそれだと思う。
そのために、また、必要だと思えば再開しよう。
その時は今よりもっとたくさん笑っていられますように。