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白い地獄 その7(最終回)

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●9日目(1/31)
この日鳴沢渓谷で遺体捜索を行っていた人夫が、雪の中に埋もれている炭小屋を発見しました。
人の気配がするので中を確認すると、2名の生存者と1名死者がいました。
1名は朝まで生きていたとの事で、遭難から8日が過ぎて生存者がいた事で、捜索隊は大騒ぎとなります。
遭難してから1週間以上が過ぎ、極寒の中食料も無い状態で生存者がいるとは思ってもいなかったのです。

またこの日、山口少佐と一緒にいた倉石大尉と、大滝まで進出後必死の思いで滝をよじ登って引き返してきた伊藤中尉は、生き残った兵とともに、このまま死を待つよりは少しでも助けを求めて進もうと、斜面を登っていました。
その途中捜索隊に発見され、河原にいた山口少佐も救助されました。

〇31連隊
朝、浪岡を出発して14時30分に無事帰営しました。
連隊長以下の出迎えを受け、連隊内は偉業達成に沸きました。
こうして予定より1日早く、10泊11日の全行程を終了しました。

●11日目(2/2)
この日最後の生存者が発見されます。
最初に炭小屋にいた4人が発見され、うち2人は救出後死亡しました。
そして15時頃、田代元湯付近の小屋にいた村松伍長が発見されます。
実に遭難してから10日ぶりの事でした。
またこの日、2日前に救助されていた山口少佐が病院で亡くなりました。

最終的に11名が奇跡的に救助され命を取り留めましたが、全員ひどい凍傷で
8名は手や足を切断する事となりました。
210名で意気揚々と出発した5連隊の雪中行軍隊は199名が命を落とす事となったのです。
最期の遺体が収容されたのは、5月28日の事でした。

この事件が一躍有名になったのは、新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」とそれを映画化した「八甲田山」によりますが、こちらはあくまで実話をベースにした創作です。
そのため、小説や映画の内容が真実だと思い込む人が多く、多くの誤解を生んでいます。

映画では5連隊が出発して間もなく、田茂木野村で相談していた時に村人が数人現れ「今日は山の神の日で地元の人間は誰も山に入らない。今日山に入ったら生きては帰れない、どうしても行くなら案内人を出す」と言いますが「軍隊が迷信など信じるか!おおかた金でも欲しいのだろう」と追っ払うシーンがありますが、これなども全くの創作です。

小説では、より話を面白くするために、緻密で用意周到な福島大尉、謙虚で人徳者の神成大尉と横からしゃしゃり出て指揮権を奪い取り、部隊を壊滅させた山口少佐という描き方をしており、そのおかげで31連隊は成功し、5連隊は失敗したと結論づけています。

しかし事実は異なり、民間人など虫けらのようにしか思っていない冷酷な福島大尉、上官に意見できず、リーダーシップを取れない神成大尉、こういう二人が指揮官でした。
哀れだったのは、こういう指揮官に率いられて、命を落としたり障害を持つことになった将兵や民間人です。

また当時の装備は貧弱で、将校や下士官の生存率が高く、兵士の生存率が低いのは装備のせいだと言われています。
極寒の猛吹雪の中、兵士はウールの外套2枚しか防寒着がありませんでした。風の中では殆ど防寒着としての役割を果たさなかったと思われます。
ウールのコートやダッフルコートで冬山登山をしたらどうなるか・・・

また、靴も革の軍靴です。雪の中を歩けば当然足が濡れて凍傷になります。
生存者の中で一番元気だった倉石大尉は、唯一自費で購入したゴム長靴を履いていました。
これは東京で土産に買ったものだそうです。当時はまだ珍しいもので、一般的に手に入るようなものではありませんでした。
最期に救助された村松伍長は、積雪地の出身だったため、革の軍靴の代わりに地下足袋を履き、足には唐辛子をまぶして、その上に藁の雪靴を履いていました。

このようにちょっとしたことで命を落とさず済んでいる事から、事前に将兵に対して適切な指示が出ていれば、もう少し生存者も多かったのではないかと思います。
5連隊はあまりにも準備不足で、雪中行軍を軽く考えていました。5日前に行った予行演習に、指揮官の神成大尉は参加していません。
これでは遭難すべくして遭難したと言われても仕方が無いかと思います。

なお、福島大尉と倉石大尉は日露戦争に従軍し、3年後の1/27に倉石大尉が、1/28に福島大尉が黒溝台会戦において戦死しました。
奇しくも3年前のその日、二人は白い地獄を彷徨っていたのでした。

後藤伍長が発見された場所からは少し離れていますが、馬立場には後藤伍長の銅像がロシアを睨んで立ち続けています。

おわり

予想外に長い話になってしまいましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。

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