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奥羽越列藩同盟(5/5)
東北朝廷
ここで話が少し脱線しますが、この頃「東北朝廷」が成立したと言う説があります。
何人もの学者がこの説を支持していますが、それによると6月16日に輪王寺宮が還俗し、諱を陸運として「東武皇帝」に即位したというのです。
それに伴い改元も行われ、新元号は「大政」としました。
伊達慶邦の養女(一条関白の娘)を皇后にし、旧幕府側の大名や奥羽諸藩の大名を関白以下の諸職に任命して、京都の他に東北に朝廷を作り、第二の南北朝時代を迎えようというものでした。
東北朝廷では、仙台藩主伊達慶邦が権征夷大将軍に、会津藩主松平容保は征夷副将軍に就任する予定だったと言われています。
ファルケンブルグ米公使も本国に連絡し、ニューヨークタイムズは「北部日本は新たな帝を擁立した」という記事を載せました。
なんとも夢のある話ですが、先の奥羽越公儀府などの設立や、さらには将来的な構想として、新天皇の擁立や征夷大将軍などの役職の割り振りの記録が、東北朝廷成立という噂になったのではないかと思います。
同盟敗れる
さて話を元に戻しましょう。
同盟は京都の太政官に嘆願するため、仙台・米沢両藩の使者が海路江戸に向かい、6月2日に榎本武揚や勝海舟に会いますが、時すでに遅く西郷隆盛らの奥羽出兵の方針を聞かされ、三度目の嘆願も失敗に終わりました。
6月16日以降、新政府軍は続々と奥羽に押し寄せ、7月に入ると奥羽越諸藩の降伏が相次ぎました。
8月23日には短期決戦の方針を取った新政府軍が会津若松城下になだれ込みました。
会津藩は9月22日の開城まで、約一か月間にわたる悲壮な抗戦を続けることとなります。
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仙台藩とともに同盟の中心になっていた雄藩米沢も鎮撫軍に降りました。
実は米沢藩は、同盟の中心にはなっていたものの、藩論を統一しきれず状況が整理できないまま同盟に参加していました。
大政奉還後、藩論は佐幕派と尊皇派に分かれましたが、どちらかと言えば尊皇派に傾いていました。
しかし藩主上杉斉憲は保科正之の旧恩に報いる為と称して、佐幕側についたのです。
この旧恩とは、200年も前に遡ります。
当時の藩主が世継ぎの無いまま急死してしまい、お家断絶の危機に陥ったのですが、正室の父が当時の会津藩主保科正之で、正之の奔走で無事養子をとる事が出来、名門上杉家の家名が保たれた事を指します。
その保科正之の末裔が松平容保でした。
そのため鎮撫軍が会津に向けて進軍してくると、鎮撫軍と会津の間に立って仲介の労を取ろうとしましたが、鎮撫軍からは会津の味方と見られてしまいました。
また、会津討伐後は奥羽諸藩も討伐するらしいという風聞を信じ、それならばと慌てて同盟に参加したのでした。
越後で長岡藩と協力して戦いましたが、新政府軍に負けてしまい、越後との国境に新政府軍が押し寄せてきました。
しかしこの新政府軍は土佐藩を中心としたもので、藩主の嫡子茂憲の正室が土佐藩主山内豊資だった関係から、谷干城などが降伏を薦める文書を書いて、藩主山内豊資から茂憲の正室へ渡してもらい、そこから茂憲の手に渡りました。
これにより米沢藩は恭順に藩論を統一し、鎮撫軍に降ったのでした。
8月26日に抗戦を続ける仙台藩に米沢藩から降伏を薦める使者がきました。同時に榎本武揚率いる旧幕府艦隊が仙台湾に入港したとの連絡が入りました。
8月28日には同盟の一方の雄、米沢藩が降伏しますが、9月3日には仙台城に榎本武揚や土方歳三をはじめ、フランス士官ブリュネなどが訪れ、軍議を行いました。
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すみませんふざけ過ぎました。荒木 飛呂彦先生です。
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その席上、土方歳三は奥羽越列藩同盟の総督に推挙されました。
土方は承諾の条件に「総督の生殺与奪の権限」つまり、身分に関係なく全ての同盟将兵の命を預かるというものです。逆らうものがあれば斬るという事です。
これに重臣たちが反対すると、土方は席を蹴って退出しました。
旧幕府艦隊は、幕府が仙台藩に貸与していた2隻の軍艦を接収して、大鳥圭介や土方を始めとした抗戦派約1000人を載せて函館へと向かったのでした。
この後仙台藩は藩主慶邦の決断により、9月15日に新政府軍に降伏謝罪書を手渡しました。
庄内藩や盛岡藩も相次いで降伏しました。
これを受けた新政府軍は、9月28日に仙台城入りし、主戦派だった主な家臣は捕らわれ、慶邦父子は上京を命じられ、仙台を離れました。
一部徹底抗戦を唱える者たちは、榎本武揚らとともに函館へ向かいました。
同盟のその後
仙台藩はその所領62万石と人民全てを没収され、12月12日に改めてその一部28万石が下賜されました。
明けて1869年(明治2年)4月には仙台藩の57名が切腹や入獄の処分を受けました。
その中には世良修蔵の項で登場した、玉虫左太夫もいました。
会津藩主松平容保は鳥取藩預かりとなり、謹慎生活を送ります。その後、容保は日光東照宮の宮司になりました。
1869年(明治2年)会津藩は嫡男容大が再興を許されましたが、旧陸奥南部藩領へ28万石から3万石への移住を強制されました。
新しい藩名を斗南とし、旧藩士と家族の合計17,000人が移住しましたが、荒れて痩せた寒さの厳しい不毛の土地で、なれない農業と過酷な環境の中で病死者が続出しました。
1871年(明治4年)に廃藩置県により斗南県となり、弘前県など周辺5県が合併して青森県が誕生しました。
その結果、会津から移住した多くの人は離散しました。
米沢藩は18万石から14万石に減封されましたが、藩主上杉斉憲は茂憲に家督を譲り隠居となりました。
その後、藩を挙げて朝敵の汚名をそそぐため、積極的に版籍奉還を行ったり、新政府の政策を支持する事で目的は達せられ、茂憲は伯爵を授けられました。
庄内藩は貧弱な装備と訓練の未熟な農民兵で国境線を守り通し、藩主酒井忠篤は永蟄居(終身謹慎)になりましたが、弟の忠宝が再興を許され藩主となりました。
その後、会津藩や磐城平藩へ移封になりますが、歴代藩主が領民を手厚く保護してきたため藩主と領民の間に特別な信頼関係ができており、家臣領民を上げて30万両(70万両からまけてもらった)の献金を集めて明治政府に納め、藩主は領内に戻る事ができました。
盛岡藩は仙台藩への義理で同盟に加盟し、途中から新政府軍に降伏した秋田藩を攻撃しました。それもあり戦後は賊軍として、厳しく処断されました。
藩主の南部利剛は所領を没収の上隠居、長子の利恭が家督の相続を認められますが、30万石から当初は白石藩、後に陸中四郡の13万石に減封されました。
この時12歳だった盛岡出身の原敬、後に平民宰相と呼ばれる少年は、藩閥政治を変えるため権力欲の権化である長州出身の山形有朋と長年にわたる駆け引きを続け、大正7年に藩閥を抑えて初めての政党内閣を樹立しました。
実に50年をかけて往時の無念を晴らしたのでした。
その後原敬は爵位や叙勲は拒絶し、雅号は、薩長が東北を侮蔑した「白河以北一山百文」をもじり「一山」としました。
常に時代の支配者から虐げられてきた東北ですが、時に中央に反旗を翻し、時に不世出の英雄を輩出します。
幕末の一瞬に徒花(あだばな)を咲かせた奥羽越列藩同盟ですが、今もその不屈の精神は東北人の心の中に生きているのです。
おわり