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無音の話を聴く-発声障害になった話-

忙しなく口と手を動かしても、
伝えられることはほんのわずか。

声の出ない世界で生きること。

それは電話がかかってきても出ることは
出来ない世界になるということである。

それは自動レジのあるスーパーに行き、
自動レジがないお店では
可能な限り買い物は
控える生活になるということである。

それは伝えたいことを
満足に伝えられることは殆ど皆無に等しくなり、
うまく伝わっていないだろうことも
大方飲み込む生活になるということである。

聞こえる耳に音のない声を

約2ヶ月前に擦り切れたような声を聞いて以降、
私は最も身近だった声を聞いていない。
1月末、コロナ患者対応を行ったことがきっかけで
私自身がコロナに感染してしまった。
10日間の療養期間を経て、職場に復帰すると
声が半紙のような薄さになっていた。
コロナ感染、ひとり暮らしの療養で
全く人と話していなかったことが
原因だろうと思い、
少し無理をしてでも
それまで休んでいた仕事を取り返そうと
声を出していた。

数日後、朝起きるといつも以上に声が掠れ、
ほとんど出なくなっていた。
それまでにも声が満足に出せず、
聞き返されることはあったが
会話を「音声」で行えていた。
しかし、「音」はもう出なくなっていた。

職場が病院ということもあってか、
声のことを多くの上司が気にかけてくれていた。
数日前とは変わり、ペンと紙をもって
コミュニケーションを図ろうとする
私をみた上司は
「一刻も早く耳鼻科に行ったほうがいい」と
普段から財布を持ち歩かない私に
お金を握らせた。
私は他の上司から聞いた耳鼻科に
そのまま直行することになった。

耳鼻科での診断は「機能性発声障害」だった。
コロナの後遺症として
喉の上の方に炎症がかなり強く出ていたため
当初はその影響が大きく出ていると
考えられていた。

しかし、その炎症を抗生剤で
落ち着かせてもなお、
声が出ないことをみた医師が
「原因は後遺症というよりもストレスだと思う」というコメントとともに消去法で下した
診断であった。
「仕事は控えたほうがいい(というか、その声で仕事無理だよね)けど、職場と相談して」という
指示だった。

地元から離れ、
ひとり暮らしの長い私は分かっていた。
人と話さなくなることは
声よりも先に心が蝕まれていくことを。

幸運にも病院というよりも
施設というイメージが合いそうな
寝たきりの方が多い病棟に勤めていたため、
スタッフ間でのやり取りさえ困らなければ
どうにか仕事は続けられると考えていた。

病棟の師長には医師からのコメント、
私の思いを伝えた。
内容に了承してくれ、
業務内容を声をあまり使わなくてもよい
業務配置にする配慮をしてくれた。

しかし、次第に荒波で削り取られる岩のように
少しずつ私の予想は打ち砕かれていった。

手を使っている時にオープンな質問には
すぐに答えられない。
聞きたいことをすぐに聞くことが出来ず、
話題が変わってしまい、
作りかけたメモを握りつぶす。
聞きたくないことばかりは聞こえるのに
言いたいことはすぐに言えない。

いっそのこと、
耳も聞こえなくなれば良かったのに。
そうなれば、下手に足掻くことなく、
いろいろなことを良くも悪くも
諦めることが出来る。
そう思い始めていた。

「話したいこと」が「話したこと」になるまで

複雑なやり取りを避け、出来るだけ波風立てず、
気力が尽きないよう過ごしていた。
そんな時、以前、同じ病棟で勤務していた
前指導者と顔を合わせる機会があった。
仕事に関することはもちろん、
仕事以外のことも沢山お世話になった
大上司であった。

私の状態を知っており、顔を見るたびに
気にかけて、声をかけてくださっていた。

話したいことは沢山あった。
立ち話に相当する時間で「話せること」は
手のひらサイズのメモ帳に書くことが出来る
「筆量」と等しかった。

殴り書き以上の殴り書きで次から次へと
「話したいこと」を書いた。
しかし、どれだけ頑張っても
「話したいこと」が「話したこと」になるのには時間がかかってしまう。

そんな時、隣で温かさを感じた。
私の走り書きする「話したいこと」が
話し終わるまで
微笑みながら隣で待ってくれていた。

ほんの僅かな時間だった。
気がつけば私のメモ帳には脈絡のない
「話したこと」が散らばっていた。

オープンな質問をしておいて、
私が何とか話そうとすると
それを遮るように
「って聞いても答えられないよね」と言われ、
てへへと笑いながら頭を下げたこともあった。
きっと悪意なく、
私に関心を向けてくれた人たちの
言葉だったと思う。

けれど、やっぱり最後まで待ってほしかった。

それは私が筆談しか出来ないからではない。
思うことや考えることが
出来ないわけではないのに、
それを遮られてしまったような感覚に
なってしまったからだ。

そんな中、上司は最後まで待っていてくれた。
そんな人にはやっぱり聞いてほしいと思う。
話したいと思う。
きっと上司は私の「声」を
聞こうとしていたのではなく、
私の「話」を聴こうとしてくれていた。

そして、それがいつもと変わらないことに
私はとても安心した。

コロナの後遺症だけではないだろうという
医師の見解もひっそり伝えた。
やっぱりそうなんじゃなあ、と
どこか腑に落ちたようにも見えた。
必要以上に感情が動き、
身体や生活への影響が出て、
その度に黒煙をあげ、
沈没しかける私の船をみて、
それとなく隣で、いつでも陸地まで
引きずる準備をしていてくれたような
上司だったからこその反応だったように思う。

ゆっくりゆっくりじゃな。焦らんほうがええ。
感じられるものをこれからも沢山感じられるままでおったらええが。


普段の会話の中では少し鋭く聞こえる
語尾の方言が、丸み帯びた柔らかな音に
聴こえた。

騒々しい世界で静かな言葉を

さよなら 君の声を抱いて 歩いていく
ah ah 僕のままでどこまで届くだろう
ah ah君の声を

楓/スピッツ

最近、流行ったドラマが
きっかけで聴いている一曲。
障がいのある部分は違えど、
ドラマの主人公と同じように
私は声を抱くことが出来ず、
筆談や覚えたての手話を使い、
話したいことを話そうとしている。

この状態がいつまで続くかも分からなければ、
いつどのタイミングで治るのかも、
はたまた治らないのかも分からない。

仕事も今は続けているけれど、
もしかしたらお休みすることに
なるかもしれない。
今後、様々な病院に通うことに
なるかもしれない。

それまでにあったものが欠けた時、
何かが欠けた部分を補おうとする。
それが私にとっては
より感度の高い感性な気がしている。

とても疲れるもので欠けたものを
補うことになってしまったなと感じているが、
とりあえずその時に必要なエネルギーを
見切り発車で発動させ、
その後、身体が思うままに過ごし、
休み抜くことにしている。

それでもしんどくなれば、上司のところに
話したいことを話しにいけばいいと思っている。

親指と人差し指でピストルの形を両手とも作り、
人差し指同士を向かい合わせ、左右に動かす。
まるでクリスチャンが十字をきる時のように
そっと深呼吸をしながら。

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